2014年2月26日(水)
2月26日と聞いて「2.26事件」と即答するのは「古い」ってことになるのかな。
1936(昭和11)年のことだから、ざっと80年前。その年と現在との中点はどこかというと、1975年。僕が高校を卒業して最初の大学に入り、H君らと出会った年だ。昨日のことのように鮮明である。
同様に僕らの親の世代にとって、戦時体験は常に昨日のことのように鮮明であっただろう。むろん僕自身にとってそうではない。
しかし、ここでこだわりたいんだね。
目の前にいるある人にとって、あるいは同時代に生きる人々にとって、「昨日のことのように鮮明である」事件なら、それを共感によって何ほどかでも共有しようとするのは、きわめて人間的なことではないかしら?
「カンケーないよ、その時わたしはそこにいなかったし、生まれてもいなかったんだから」というのは、堕落の初めであり文化の終わりであると僕は思う。
屁理屈かもしれないね、人間には向き不向きもあれば好みもあるし。
何のことはない、古いものへの関心が強いというだけだ。ともかく中学だか高校だかの歴史教科書で、2.26事件当日の写真を見たのが忘れられない。東京が雪に覆われ、その雪を戒厳令が覆い、軍装の集団がものものしく行き交っている。
三男が四月から通うことになった高校は、その舞台の中心となった地域にある。高校名から連想したことのひとつがそれだった。
念のために記せば、2.26事件について思い巡らすことには、「考古」でなく「考現」の観点から複雑で大きな意味がある。きわめて重大な意味だと思うよ。
***
今朝の朝日が、第五福竜丸乗組員の講演活動などについて報じている。
ビキニ環礁で、アメリカは1946年から1958年までに合計23回の核実験を行った。
以下<>は Wiki のパクリ。
<1954年3月1日、ビキニ環礁で行われた水爆実験(キャッスル作戦)では、広島型原子爆弾約1000個分の爆発力(15Mt)の水素爆弾(コード名ブラボー)が炸裂し、海底に直径約2キロメートル、深さ73メートルのクレーター(通称、ブラボー・クレーター)が形成された。
このとき、日本のマグロ漁船・第五福竜丸をはじめ約1000隻以上の漁船が死の灰を浴びて被曝した。また、ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになった。
この3月1日は、ビキニデーとして原水爆禁止運動の記念日となり、継続的な活動が行われている。>
ヒロシマの黒い雨に対して、ビキニでは白い雨が降ったと、記事にある。爆風で破砕された珊瑚礁の破片が白い粉になって降ってくる。あるいは美しくもあったろうか、もちろん放射能で高度に汚染された恐るべき雨で、皮膚に付着すれば直ちに害を為した。
この事件そのものはむろん認識していたが、「白い雨」のことは、この年になるまで知らなかった。生まれるほんの少し前に起きたことだ。
***
◯ 禍因惡積 福緣善慶(千字文)
禍(わざわ)いは悪業を重ねることによっておこり、福(さいわい)いは善行や慶びから生じる。
ちょうどこの日にこれですか。
難しいものだ、諸刃の剣とはこのことか。
第五福竜丸乗組員の惨禍は、この人々の行いが悪かったからだなどとは、今時だれも言わないし、もちろんそんなものであるはずがない。しかし僕らはそのことを本当に、心の底から肝に銘じているか。もしそうだというのなら、何の責任もなくこの種の災厄に遭った人々に対して、僕らの関心や共感はなぜこんなにも薄いのか?この人々がしばしば嘲りや差別の対象になるのはなぜなのか?実は僕らが、本当には分かっていないからではないのか?
いっぽうまた、「積善の家に余慶あり」(易経 ~ この易経というのはなかなかすごい)とあることに考えさせられる。「余慶」を期待して「善」を積むことは邪道だし、それこそ今時本気で期待する者もなかろうが、逆に自分が思いがけない幸運に恵まれた時、「これは誰かの贈り物ではないか」と考えて感謝を新たにすることは、ある種の徳の初めだと思うのだ。
祖父は素封家の当主でけっこうな土地を持っていたが、敗戦後に皆が難渋していた時に山林の多くをタダ同然で人々に譲り、田畑だけを家族のために取って置いた。やがて行われた農地改革によってその田畑をあらかた奪われ、家政は一挙に傾き、子ども達は苦学を余儀なくされた。農地改革は山林には手をつけなかったのだから、皮肉という他はない。やがて里山の奥にはゴルフ場が建設され、山林を譲り受けた人々の多くは転売によって相当の額の収入を得た。それから半世紀経ち、この人々はほとんど地元に残っておらず、住処の跡も少ない。
築80年を超えた旧家で健康に余生を養いながら、父がふともらしたのは、今の自分らの健康と安寧は、山林を私蔵(死蔵)せず人々の益に供した祖父 ~ 自身は60歳そこそこで病没した ~ の余慶ではあるまいか、ということだった。
***
ことが非対称になるので厄介だけれど、本日の千字文に半分だけの真理を認めたい。
残り半分について、聖書の下記の言葉を引いておく。
弟子たちがイエスに尋ねた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
(ヨハネ福音書 9:2-3)
神の業をかの人々に現わすことができるかどうか、それが僕らに問われている。
2月26日と聞いて「2.26事件」と即答するのは「古い」ってことになるのかな。
1936(昭和11)年のことだから、ざっと80年前。その年と現在との中点はどこかというと、1975年。僕が高校を卒業して最初の大学に入り、H君らと出会った年だ。昨日のことのように鮮明である。
同様に僕らの親の世代にとって、戦時体験は常に昨日のことのように鮮明であっただろう。むろん僕自身にとってそうではない。
しかし、ここでこだわりたいんだね。
目の前にいるある人にとって、あるいは同時代に生きる人々にとって、「昨日のことのように鮮明である」事件なら、それを共感によって何ほどかでも共有しようとするのは、きわめて人間的なことではないかしら?
「カンケーないよ、その時わたしはそこにいなかったし、生まれてもいなかったんだから」というのは、堕落の初めであり文化の終わりであると僕は思う。
屁理屈かもしれないね、人間には向き不向きもあれば好みもあるし。
何のことはない、古いものへの関心が強いというだけだ。ともかく中学だか高校だかの歴史教科書で、2.26事件当日の写真を見たのが忘れられない。東京が雪に覆われ、その雪を戒厳令が覆い、軍装の集団がものものしく行き交っている。
三男が四月から通うことになった高校は、その舞台の中心となった地域にある。高校名から連想したことのひとつがそれだった。
念のために記せば、2.26事件について思い巡らすことには、「考古」でなく「考現」の観点から複雑で大きな意味がある。きわめて重大な意味だと思うよ。
***
今朝の朝日が、第五福竜丸乗組員の講演活動などについて報じている。
ビキニ環礁で、アメリカは1946年から1958年までに合計23回の核実験を行った。
以下<>は Wiki のパクリ。
<1954年3月1日、ビキニ環礁で行われた水爆実験(キャッスル作戦)では、広島型原子爆弾約1000個分の爆発力(15Mt)の水素爆弾(コード名ブラボー)が炸裂し、海底に直径約2キロメートル、深さ73メートルのクレーター(通称、ブラボー・クレーター)が形成された。
このとき、日本のマグロ漁船・第五福竜丸をはじめ約1000隻以上の漁船が死の灰を浴びて被曝した。また、ビキニ環礁から約240km離れたロンゲラップ環礁にも死の灰が降り積もり、島民64人が被曝して避難することになった。
この3月1日は、ビキニデーとして原水爆禁止運動の記念日となり、継続的な活動が行われている。>
ヒロシマの黒い雨に対して、ビキニでは白い雨が降ったと、記事にある。爆風で破砕された珊瑚礁の破片が白い粉になって降ってくる。あるいは美しくもあったろうか、もちろん放射能で高度に汚染された恐るべき雨で、皮膚に付着すれば直ちに害を為した。
この事件そのものはむろん認識していたが、「白い雨」のことは、この年になるまで知らなかった。生まれるほんの少し前に起きたことだ。
***
◯ 禍因惡積 福緣善慶(千字文)
禍(わざわ)いは悪業を重ねることによっておこり、福(さいわい)いは善行や慶びから生じる。
ちょうどこの日にこれですか。
難しいものだ、諸刃の剣とはこのことか。
第五福竜丸乗組員の惨禍は、この人々の行いが悪かったからだなどとは、今時だれも言わないし、もちろんそんなものであるはずがない。しかし僕らはそのことを本当に、心の底から肝に銘じているか。もしそうだというのなら、何の責任もなくこの種の災厄に遭った人々に対して、僕らの関心や共感はなぜこんなにも薄いのか?この人々がしばしば嘲りや差別の対象になるのはなぜなのか?実は僕らが、本当には分かっていないからではないのか?
いっぽうまた、「積善の家に余慶あり」(易経 ~ この易経というのはなかなかすごい)とあることに考えさせられる。「余慶」を期待して「善」を積むことは邪道だし、それこそ今時本気で期待する者もなかろうが、逆に自分が思いがけない幸運に恵まれた時、「これは誰かの贈り物ではないか」と考えて感謝を新たにすることは、ある種の徳の初めだと思うのだ。
祖父は素封家の当主でけっこうな土地を持っていたが、敗戦後に皆が難渋していた時に山林の多くをタダ同然で人々に譲り、田畑だけを家族のために取って置いた。やがて行われた農地改革によってその田畑をあらかた奪われ、家政は一挙に傾き、子ども達は苦学を余儀なくされた。農地改革は山林には手をつけなかったのだから、皮肉という他はない。やがて里山の奥にはゴルフ場が建設され、山林を譲り受けた人々の多くは転売によって相当の額の収入を得た。それから半世紀経ち、この人々はほとんど地元に残っておらず、住処の跡も少ない。
築80年を超えた旧家で健康に余生を養いながら、父がふともらしたのは、今の自分らの健康と安寧は、山林を私蔵(死蔵)せず人々の益に供した祖父 ~ 自身は60歳そこそこで病没した ~ の余慶ではあるまいか、ということだった。
***
ことが非対称になるので厄介だけれど、本日の千字文に半分だけの真理を認めたい。
残り半分について、聖書の下記の言葉を引いておく。
弟子たちがイエスに尋ねた。
「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
イエスはお答えになった。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」
(ヨハネ福音書 9:2-3)
神の業をかの人々に現わすことができるかどうか、それが僕らに問われている。