散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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しろしめす/トンボの滑らぬ禿頭

2014-02-24 12:14:14 | 日記
投稿漏れ補遺

2014年2月21日(木)

 連載小説『荒神』、大詰めへ向けての坂道を粛々と登っていく。
 怪物が人の思いの具現化であることが、主人公たちの共通の確信となりつつある。それを改める力は、それを生み出す力と同根であり、その力を分け持った兄妹の対決の時が迫っている。充実の筆致だが・・・
 
 「術者になり得る強い力を秘めた子が生まれる際には、お山がそれをしろしめまする。」

 ? 

 「しろしめす」は「しらしめす(知召)」の変化したもので、「知る、治める、管理する」の意をもつ強い敬語だ。文脈からは、異能の子の誕生を「お山」が自ら「啓示する、知らせる、宣言する」といった意と思われ、ここで「しろしめす」はおかしい。「しめす」=「示す」という連想が働きそうだが、これは「知ろし・召す」なので切れどころが違う。
 深く尊敬するこの筆者には珍しいことで、こういうのが編集の責任だというのだ。


2014年2月22日(金)

 こうの史代さんの挿絵も親しみやすくて良い。のどかで温かく、いくらか漫画的なのが文に合っている。
 今朝は思わず笑って、ほっこりした心持ちになった。

 宿命の対決へ近づいていく弾正と朱音、その幼い姿が縁側から覗き込んでいる。室内で勤行に専心する明念和尚の禿頭に、トンボが止まっているのが見えるかな。庭に飛ぶ2匹とあわせ、3匹のトンボが老若三人の姿と気持ちよく呼応する。

 ほんとうに、珍しく楽しい連載小説だ。
 

建名立 形端表正 ~ 千字文 027

2014-02-23 23:24:41 | 日記
2014年2月23日(日)

◯ 建名立 形端表正 
徳がたしかに定まれば名声も挙がり、身体の動き(形)も容貌(表)も端正になる。

 名声はともかく、挙措動作や容姿も内からでないと整わないのは、きっとそれに違いない。最近、鏡で見る自分の顔かたちがひどく気に入らないのは、その原因が内にあることを知っているからだ。

 このことについては、個人も社会も変わりがないという気がする。

***

 今朝さいたま水族館の庭の池で約500匹の魚が死んでいるのが見つかった。水質検査で高濃度の残留塩素が検出されたとある。
 午後には名古屋駅近くの交差点で乗用車が歩道に突っ込み、通行人12人が重軽傷を負った。現行犯逮捕された運転者は30歳男性で、誰でも良いので人を殺そうと思ったと語っているらしい。
 東京マラソンは厳戒の甲斐あって(?)、テロにも遭わず無事終了した。A君も楽しく完走したことだろう。

 僕はいつも通り無為徒食の一日、夜は『スラムドッグ$ミリオネア』をDVDで見た。
 勝沼さんのコメントのおかげで『ひまわり』も録画できたので、後で久しぶりに見てみよう。

景行維賢 克念作聖 ~ 千字文 026

2014-02-22 12:58:23 | 日記
2014年2月22日(土)・・・投稿忘れ

◯ 景行維賢 克念作聖

 立派な行いをする人は賢人であり、よく考える人は聖人となる。

 克は剋と同義で、ここでは「十分に、よく」という意味らしい。
 賢人・聖人にはとんと御縁がないが、李注の下記引用は関わりなしとしない。

 「巣居する者は風を知り、穴居する者は雨を知る」と孔子が言ったとあって、どんな人間のことかとばかり想像していたら、もっと自在な世界だった。
 「鵲は巣にいて風の起きる所を知り、獺(かわうそ)は穴にいて水の高下を知る」(淮南子)

 ついでに論語、「人、遠き慮(おもんぱか)り無ければ、必ず近き憂いあり。」
 中東の政治情勢が台所事情と直結しうる時代において、孔孟がかえって新鮮ということがある。

***

 林葉直子という名前を久しぶりにネットで見た。重症の肝硬変を抱えて相変わらずの体当たり人生なんだね。

 業(ごう)ということを、ふと思ったりする。

 囲碁より将棋が似つかわしいとも。

臨床雑記 016: 感謝の効用

2014-02-22 11:42:36 | 日記
2014年2月21日(金)

 今さらでもあり、既に書いたような気もするんだが。

 「感謝する能力」というのはケースの臨床的な予後に関わるばかりか、いわば人生の予後を占うきわめて大事な要因だ。
 それが非常に大きな、ほとんど決定的な要因であることを、日に日に強く確信する。そしてこの能力が、人格全般と共に生涯にわたって成長を続けることも同じく確実なことと思われる。

***

 「大学まで出してもらったのは、あの時代の、しかも女子としてはありがたいことで、それはよく分かってたんですけれど」
 語り手は、予備知識なく自発的に自由連想空間をセットアップした、例の70代女性である。敬意を表して今後はFAさんと呼ぶ。むろんフリー・エージェントではない、free association のFAだ。
 「良い先生とか先輩とかとの出会いは、あんまりなかった、師に恵まれなかったって、不遜にもそんな風に思ってたんですね。だけど最近、実は自分の側の問題じゃないかって思うようになったんです。与えられたものに気づく目とか、それを生かす力とかを、その時の自分がもっていなかったんじゃないかって。」

 彼女ではなく自分のこととして、全くもっておっしゃる通りだ。感謝は、情緒的な問題であり霊的な問題であると共に、すぐれて認知的な問題でもある。所与の材料の中に感謝すべき事柄を見てとるためには、それぞれが与えられた知的能力も大いに働く必要がある。

 ただ付言するなら、与えられている幸いをその時すぐに気づかないことにも、積極的な意義がありそうだ。自分が認知しうる以上の恵みを与えられいたことに、後になって思いあたるのは、人生のじっくりとした至福の最たるものである。だからなおのこと、夭折・早世は痛ましい。感謝できるためには、時間もまた必要であることが多いのだから。

***

 FAさんは、ある重篤な病を生き延びた体験をもっている。それを最初に宣告されたとき、当時の主治医に対して「それでも私は75歳までは生きようと思います」と揚言し、相手を絶句させたという。そんなことが期待できる状況ではなかったのだ。その年齢に、この秋彼女は到達する。
 「ここまでは、生きようとして生きてきたんですね。その先は、生かしていただくんだと思っています。」
 「楽しみですね、その違いを感じるのが。」
 「そう、そうかもしれません。」

 「生きる」と「生かされる」と、構えの違いは「感謝」と連動する。
 逆に、それなりに支えられているのに本人にはそのことが見えず、認知がことごとく恨みと嫉みを帯びる時、配慮も援助も焼け石のうえの水のように空しい。怒りの蒸気を残し、一瞬にして消え失せてしまう。

 厳しい現実だ。

proud of you! / 五輪狂騒曲

2014-02-22 11:05:45 | 日記
2014年2月21日(金)

 "I'm proud of you."

 この表現は好きなんだな。英語の、またアメリカ人の良さを表すような言い回しで。
 実際アメリカ人はこの言葉をよく使い、そしてタイミング良く使う。

 「私はあなたを誇りとする」
 「私はあなたが誇らしい」
 「あなたは私の誇りである」
 いろいろ言い換えてみるが、なかなかピッタリしない。

 「よくやった!」
 は、かなり近いかな。
 「偉いぞ、よくやった!」
 そう、そんな感じだ。
 君はよくよく頑張った、そんな君を見ていると僕の背中がまっすぐ伸びるよ、ありがとう。

 もちろん、浅田真央。
 まさかのSP16位、自他ともに公然と語ってきた「金メダル」が事実上絶望になった時、いったい何を支えに氷上に出るのか。共揺れしてこちらの目の前が暗くなり胃が痛くなった、その後のあの滑り、あの涙。
 金メダルを取ることは余人にもできるだろうが、この状況下であの滑りができる者がどれだけあるか。
 大したアスリートだ。

 We're proud of you!

***

 それにしても騒ぎすぎだ、浅田に限らず。高梨なんか可哀そうに、騒ぎに潰された面が強いのだろう。もすこしそっとしておけないかな。
 しかも騒ぎ方のポイントが成果主義にメチャメチャ傾斜していて、それはオリンピックが人々のではなく国々の祭典化していることと呼応し、相当不快である。開会式も、いつからあんなバカ騒ぎをするようになったのかな。
 会を重ねる毎に五輪熱が冷めていく。逃げ腰で悪いとは思うが、2020年に東京にいたくない。まだ地上を去りたくはないけれどね。
 
 読みかけの本のことをもうすぐブログで書くんだが、ふと結びついた。なぜイスラム圏の影がオリンピックで薄いか?冬は地理的条件から当然として、夏の五輪についてもさ。それはその筈だ。また後で。