散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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墨悲絲染 詩讃羔羊 ~ 千字文 025

2014-02-21 07:53:37 | 日記
2014年2月21日(金)

◯ 墨悲絲染 詩讃羔羊

 墨翟(ボクテキ)は糸が色に染まるのを見て悲しみ、
 詩経は羔羊のような徳を讃えた。

 墨翟はいわゆる墨子、白糸が色に染まるとは、本来は純粋な人の心が俗悪に染まることを指すらしい。「朱に交われば赤くなる」の類いか。

 ・・・続きは晩に。

2014年2月22日(土)

 昨日の続き。

[李注]
 墨に近づくものは黒くなり、朱に近よるものは赤くなる。
 善人と交際するのは、蓬(ヨモギ)が麻の群の中に生えたようなもので、支えてやらなくても自ずから真っ直ぐに也、悪人と一緒にいるのは子どもを抱いて垣根を越えるようなもので、一人が地面に落ちれば二人とも傷つく。

 ・・・譬えが面白いな。「ヨモギが麻の群の中に生えたようなもの」か。
 「朱に交われば赤くなる」は、もっぱら悪人の悪しき影響について使われる。有徳の人の良い影響の方に、僕らの注意が向きにくくなっているということがあるだろうか。注意は向かずとも、人が人に及ぼす感化影響力は日々あらゆるところで働いているから怖いのである。人と接して何かしら影響を受けないということは、ありえない。だから怖い。そして面白い。

 人から受ける影響というものは同一化の機制の良い例証だが、広く見れば「学習」や「習慣化」の範疇に入るんだろう。
 「習慣は第二の天性」という言葉を聞いて「とんでもない」と言ったという逸話のあるのが、ウェリントン将軍である。ワーテルロー/ウォータールーでナポレオンを破った例の人物だ。「第二の天性どころか、天性に十倍する影響力をもつものだ」と言ったというのが、話のオチである。
 近代ヨーロッパに対比列伝の素材を取るなら、ナポレオンとウェリントンなんか面白いかな。いやダメだ、てんで格が違う。ナポレオンは単なる軍人ではないから、その部分だけでウェリントンと比較したって「対比」にならない。
 ナポレオンは対比を絶している。島で生まれ、島で死んだ、大陸の英雄である。

 


信使可覆 器欲難量 ~ 千字文 024/雪の重み

2014-02-20 09:23:23 | 日記
2014年2月20日(木)

◯ 信使可覆 器欲難量

 信(マコト)は覆(カヘソウ)ず可(ベ)からしむ
 器は量り難からんことを欲せよ

 まるで判じ物だが、意味は難しくない。ただ、「覆」の字が「復」と同じく、「くり返す(=復唱する)」の意をもつと知る必要がある。

 約束したことは、くりかえし言えるようにする(=約束を守る)こと
 自分の器量は他人から量り難いようにする(=能ある鷹らしく爪を隠す)こと
 となるのか。

 「信」について李注の引用する物語 ~ 張元伯と范巨卿の友情物語 ~ は、『雨月物語』の「菊花の契り」によく似ている。ただし二部構成である。
 九月九日重陽の節句に、元伯がかねての約束を守って巨卿を訊ねてくる話と、巨卿が死に際して元伯の夢枕に立ってこれを知らせ、元伯が直ちに訪れて巨卿を葬る話である。二つを一つの話にまとめ、「死を知らせる」モチーフを「約束を守るために死ぬ」形へ逆転させたものが「菊花の契り」で、これがまさに上田秋成の施した脚色ではないかと思う。

 後段について、器量をことさら隠すのは、宣伝して回るのと同じぐらい作為的で嫌らしいと思っていたが、一昨日ある知人から聞いた話は切実である。
 この人は小児の療育施設の長をしており、その資金調達に苦慮する立場である。役所の担当者の注目と評価を獲得することは必須だが、うっかりやり過ぎて反感を買うと覿面にホサれるというのである。才能は売るほど豊かな人なので、そういうことも起きるのだろうが、イヤな話だ。
 ここでのテーマはまたしても嫉妬(ねたみ)、何週間か毎に、このテーマに戻ってきている。昨日の千字文、子張第三の患(うれ)いも、罪悪感の投影ばかりでなく、この角度から見ることもできたのだな。

***

 火曜はこの知人を訊ねて湘南方面に出かけ、水曜は放送大学で諸会議などあった。どちらの道筋でも、街路樹のかなり大きな枝が灌木の上に落ちているのを見た。鋸で伐ったのとは違い、根本から千切られたような具合で、明らかに雪の仕業である。桜もクスノキも、雪には抗すべくもない。送電線のケーブルが雪の重みで切れる話は、昔からよくあった。
 最寄り駅への道ばたには、高さ1mほどの立派な「かまくら」ができていて、子ども達が中でままごとをした形跡がある。

 三度目の雪がどうやら回避されそうで、安堵もあり落胆もありというところ。
    

罔談彼短 靡恃己長 ~ 千字文 023/『死生学』教科書完成

2014-02-19 08:42:30 | 日記
2014年2月19日(水)

◯ 罔談彼短 靡恃己長

 これは読みの難しいことだ、「彼がとがをを語ることなかれ、己のまされることを恃むなかれ」とある。罔と靡は、いずれも「なかれ」と訓読される否定命令の助動詞と言うことか。
 この戒めは普遍的なもので、聖書の例の句など思い出される。

 兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。
 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。
 (マタイ7:3~5)

[李注]

顔淵「世に住んで、何を患いとするか?」
子張「一、富貴なものと貧しい者が一緒に生活して、前者が後者に怨みを抱かせること。二、互いに言い争い、人に勝とうとすること。三、他人の悪事を見てはそれを責めること。」

 社会的闘争の三つの原因か。貧富格差と競争心は分かりやすい。他人の悪事を問責する傾向は、少し考えてみる必要がありそうだ。むろん、自分自身の内に悪があること、その後ろめたさと関連している。高度に心理学的な現象である。

***

 『死生学』の教科書が完成した。これは素直に嬉しい。

クロイッサントとモウタクトウ

2014-02-18 13:35:21 | 日記
2014年2月18日(火)

 遅い昼休みに、ふと思い出したことを。

 クロワッサンの由来がトルコの新月旗らしいという話をこないだ書いた。クロワッサンと言えば・・・

 「あたし、クロイッサントが大好きなの、あれ美味しいでしょ?」
 「クロイッサント?」
 「知らない?ほら、こんな形のサクサクの、フランスのパンよ」
 「ああ、クロワッサン・・・」

 会話の相手はセントルイス時代のお隣のサラ、高校の英語の(つまり国語の)先生で立派な教養人、それだけにクロイッサントにはつい笑った。
 カラクリははっきりしていて、あれは croissant と綴るから、耳からでなく目から知った英語人には「クロイッサント」と読めてしまう。字母が共通だからこそ起きるマチガイである。
 この種の例はいくらでもあるだろう。確か『ロッキー』の第2作で、一躍人気者になった主人公がCF撮りに引っ張り出されるが、rendez-vous を「レンデズヴァウス」とか何とか読んでNGになっちゃう場面があった。
 むろんフランス語だけではない、たとえばドイツ語。僕らがクシャミをすると、サラはドイツ風に "Gesundheit!" と声かけてくれるんだが、その発音が「グズンダイト」としか聞こえず、かえって鼻がグズグズしちゃったりして。先祖にドイツ系がいるので、大学ではその文化を学んだ、と胸を張るジョージ某の "Ich liebe dich" は、何度聞いても「イック・ライビー・ディック」だった。

 ここからが大事なところで、「フランス語やドイツ語の発音は、同じヨーロッパ系である英米人の方が、日本人よりも当然上手い」とはいえない、同じヨーロッパ人だからこそ、誤った発音に陥りやすいということがある、それで終わりにしたらいけないのね。
 ひっくり返せば、僕らは中国語に関して、ちょうど仏独語に対する英語人の立場にある。漢字が読めちゃうから、本来の発音がかえって頭に入らないということが、ヤマほどあるのだ。
 毛沢東はマオ・ツェトン、小平はテン・シャオピン、初めて聞いたときは奇異な感じがしたものだが、考えてみれば奇異なのはこっちの発音なわけで、そのことが腑に落ちるまでに僕なんかけっこう時間がかかった。漢字なんかまるで読めない欧州人の方が、音としての中国語と中国文化に予断なく入っていけるということがある。小癪に障ると思ったけれど、そういうことは確かにあるのだ。お互いさま。

 マオ・ツェトンが腑に落ちるより遥かに早く、麻雀用語はすぐになじんだ。「東南西北(トンナンシャーペー)」に「七対子(チートイツ)」に「四喜和(スーシーホー)」、これだって訛ってるんだろうけれど、はるかにオリジナルに忠実だし、少なくとも忠実たらんとしている。そうでなければ、麻雀にならないよね。
 身軽なサブカルチャーは、鈍重な公式文化の行間をいつも風のように吹き抜ける。

 「同文同種」という言葉はとっくに死語だし、中国の漢字簡略化、韓国の漢字離れなどは、実体的にも「同文」性に引導を渡した。漢字フェチとしてそれを惜しむ気持ちは捨てがたいが、かつて「同文同種」というイデオロギッシュな虚構が発揮した斉一化の暴力を思えば、これはこれで良いのかもしれない。
 「同じだから/近いから、分かる」というア・プリオリな決め込みには、いつだって自戒が要る。遠いから見えないこと以上に、近すぎて見えないことが、この世に多いのだ。
 老眼になると、なおさらね。

知過必改 得能莫忘 ~ 千字文 022

2014-02-18 07:41:49 | 日記
2014年2月18日(火)

◯ 知過必改 得能莫忘
 「過ちを知りては必ず改め、能を得ては忘るること莫れ」

 能はここでは「大切なこと」ぐらいの意味らしい。
 
 アラユルコトヲ、自分ヲ勘定ニ入レズニ
 ヨク見聞キシ、ワカリ、ソシテ忘レズ
 (雨ニモ負ケズ)

 李注は子夏と子貢(いずれも孔子の弟子)の会話として、「三つの浪費」を挙げている。
 一、若いときに学んだことを老いて忘れる。
 二、若いときに知り合い、年老いて仲が絶える。
 三、高位にあって自ら尊ばず、下位にあって恭しくしない。

 三の真意が、いまひとつよく分からない。高位者の尊大、下位者の卑屈の方が、よほど害が大きいと思うけれど。これが儒教さと言っては、身も蓋もない。

***

 原稿の締切に追われている間に、世の中は大雪で難渋している。
 八王子の知人が送ってくれた写真である。近所の人々と仕事の合間に懸命の雪かきだが、かいた雪を置く場所がなくて困るという。軽井沢からのニュースでも同じ言葉が聞かれた。それでもかかないと、近所のガレージの屋根が軒並み潰れているらしい。孤立とまではいかないが、バスもタクシーも動かず、日頃20分ほどの最寄り駅まで2時間かかって歩いたという。
 降りすぎる雪は、天の大いなる無駄だ。皆、御無事で・・・