散日拾遺

日々の雑感、読書記録、自由連想その他いろいろ。
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1月26日 ジョルジュ・ビゴー来日(1882)

2024-01-25 07:58:53 | 日記
 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.31

1月26日 ビゴーが日本美術研究のため来日する

> 1882(明治15)年1月26日、フランス人の風刺画家ジョルジュ・フェルディナン・ビゴーが横浜港に到着した。当時21歳のビゴーはジャポニズムの影響を 受け、日本美術の研究のために来日した。以後17年余り日本に滞在し、多くのスケッチ、版画、水彩画などを残した。特に庶民の風俗を描いた作品や、自ら創刊した 雑誌「トバエ」に掲載した風刺漫画は、明治初期の日本の日常の貴重な記録となった。
> ビゴーは来日当初、陸軍学校画科教師の職を得、明治19年まで務めている。その後、自由民権運動の指導者、中江兆民の仏学塾でフランス語を教えた関係で中江らと親しくなり、自由民権運動に関する風刺画を多く残した。ちなみに、「トバエ」というのは、鳥獣戯画の鳥羽僧正にちなんで付けられた名前である。
> 横浜の居留地での出版だったため、辛辣な政治風刺も大目に見られていたビゴーだったが、居留地の廃止に伴う官憲の弾圧を恐れ、1899年(明治32年)フランスに帰国した。日本滞在中に日本女性マスと結婚し子供も生まれたが、帰国に際しては、息子モーリスだけを連れ帰った。帰国後も日本の情景や庶民の暮らしを描いた多くの作品を発表し、1927年にパリ郊外で没している。

***

 明治初年、あるいはそれに先立つ時代の日本とフランスの関係は思いのほか深いものがある。
 維新政府は当初、海軍はイギリス、陸軍はフランスに範を求めた。たとえば旅順攻防戦で活躍した巨砲28サンチ榴弾砲は『坂の上の雲』でも詳しく紹介されているが、この「サンチ」は cm のフランス語読みに由来する。
 西洋の近代思想を学ぼうとする人々にとって、大革命からようやく一世紀を経たばかりのフランスの啓蒙思想は、魂の渇きを癒す天来の慈雨のように思われたことだろう。ビゴーとも親交のあった中江兆民がルソーの主著を『民約訳解』として訳出したのは、ビゴー来日と同じ1882(明治15)年のことである。
 一方、フランスの方では浮世絵の爆発的なブームがきっかけとなって、ジャポニスムと呼ばれる日本趣味の流行が社会現象となっていた。これはとりわけ絵画の方面に顕著であったから、画家を志していたビゴーが1878年のパリ万博で浮世絵に出会って興味を抱き、若さの駆り立てるままに21歳で来日したのも彼一人の酔狂ではなく、歴史的背景のあることだった。
 『社会契約論(=民約訳解)』のどこかで、ルソーが日本の香具師(やし)の芸を面白く引用していた記憶があるのだが、ページをめくってみてもすぐに出てこない。ともかくこちらがそれと意識するより早くから、ヨーロッパとりわけフランスの一部に日本を注視する人々があったのは間違いない。


 クロード・モネ『ラ・ジャポネーズ』(1876)

 手許に『ボンジュール ジャポン』と題された出色の写真集があり、これまたビゴーと同じ1882年に日本にやってきたフランスの若者が、素人だてらに撮りまくった乾板写真のコレクションで、これが実に面白い。撮り手はシャンパン財閥の御曹司で、すっかり日本に惚れ込み、帰国後にわざわざ日本から専門家を呼び寄せて日本風の庭園を造ったりしたことが解説に書かれている。
 
    ウーグ クラウト『ボンジュール ジャポン―フランス青年が活写した1882年』
    (朝日新聞社 1998)

 ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot, 1860 - 1927)。
 かつてNHKが『ビゴーを知っていますか』というドラマを造った。調べてみると1982年の制作で、ビゴー来日百周年を意識したものだったか。なかなかの名作だったと記憶する。島田陽子が好演していた。
 
 ドラマでは帰国後のモーリスが日本人との「あいのこ」だというのでいじめられ、フランス人としてのアイデンティティを求めた末に、第一次世界大戦で戦死するという悲しい顛末が語られていたが、ネット検索では裏が取れない。
 『ボンジュール・ジャポン』といい下図のビゴーといい、フランスの若者たちが和服を着て写真を撮らせているのが面白い。アメリカ人やイギリス人が同様にしている写真を見た記憶がないのは、自分が知らないだけなのだろうか。好きなものに隔てなくのめりこむ、その素直さに共感する。

    

左:「魚釣り遊び」(Une partie de pêche) 『トバエ』1号 (1887.2.15)
魚(朝鮮)を釣り上げようとする日本と中国(清)、横どりをたくらむロシア。

Ω


1月25日 ハインリヒ四世とカノッサの屈辱

2024-01-25 04:44:04 | 日記
 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.30

1月25日 ハインリヒ四世が教皇に許しを求める(カノッサの屈辱)

> 1077年1月25日、神聖ローマ帝国皇帝ハインリヒ四世は、ローマ教皇グレゴリウス七世に破門を解いてもらうべく、教皇の滞在するカノッサ城に赴いた。しかし教皇はハインリヒ四世に会おうとしなかったため、彼はカノッサ城の外で、裸足、無帽、粗末な修道僧といういでたちで三日間立ち続け、教皇もこれを見てハインリヒ四世と会見することを承諾した。会見中、ハインリヒ四世は伏して許しを乞うたので、教皇もついに破門を解いたという。
> この事件の発端となったのは、ハインリヒ四世が自分の権力の拡大のため、北イタリアの司祭を次々と任命したことに始まる。これは叙任権闘争と言われ、司祭は教皇が任命すべきだと考える教会側との権力闘争に発展し、ついに教会側は彼を破門するに至った。当初は強気だったハインリヒ四世だが、諸侯が次々に反旗を翻し、ついに追い詰められて謝罪に向かったのだった。
> 「カノッサの屈辱」と日本では呼ばれているこの事件は、英語では単に "going to Canossa" と呼ばれている。この屈辱的な和解の後、ハインリヒ四世は直ちに仕返しをし、攻め込まれた教皇は辛くも脱出したサレルノで客死している。

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 英語名の件、これだけでは面白さがわからない。ドイツ語では "Gang nach Canossa" で、これは英語と同じ。一方、イタリア語では "Umiliazione di Canossa" 。umiliazione は 英語の humiliationだから、まさしく「屈辱」である。
 この件、もともと教皇権と皇帝権の争いという普遍的な意味をもつ世界史的事件だったが、19世紀における民族主義の台頭の中でビスマルクが「ドイツが被った屈辱」と喧伝し、政治利用するといったことが起きてくる。ハインリッヒ四世を神聖ローマ皇帝というよりも一個のドイツ人と見立て、ことさらその屈辱を強調することによって民族主義を鼓吹する魂胆である。
 そうした流れの中、ドイツ語では「屈辱」を忌んで "Gang nach Canossa" と呼ぶようになり、英語がこれに追随した形なのであろう。一方のグレゴリウス7世はトスカーナ地方の出身で、ハインリッヒ4世がドイツ人であるとするならこちらはイタリア人だから、「屈辱」の語をひっこめる理由はさらにない。
 ただ、こうした国籍による色分けが大きな意味をもつのは近代以降の話であり、1077年の事件はあくまで教皇対皇帝の対抗関係から起きたものである。ビスマルクは百も承知で政治的強弁をふるったに過ぎず、そのあざといやり口はどこかドナルド・ドランプを思わせるものがある。
 「ヨーロッパでは現在でも『カノッサの屈辱』は『強制されて屈服、謝罪すること』の慣用句として用いられる」と Wikipedia の解説にあるぐらいだから、イタリア語に倣って「屈辱」とする和訳はそのままでよいのである。

 ところで、ケストナーの名品に現れる下記のやりとりが面白い。

「息子のホールバインご存じ?」
「正直言うと、知らんですな!おやじのほうも知らんです」
「ホールバインは有名なドイツの画家なんですよ。長い間ヘンリー八世の宮廷にいたんですの」
「そりゃあ知っとるです」
キュルツは嬉しそうに言った。
「そりゃああれでしょう、裸足で一日雪の中に立ってたやつでしょう」
「ちがうわ、それはヘンリー四世よ」
「しかし、だいたい当たったでしょう?」
「そうね、まあだいたいね。ヘンリー四世はドイツの皇帝で、ヘンリー八世はイギリスの王様ですわ。いちばん有名なのは、この王様は何度も結婚して、奥さんを幾人か死刑にしたことですの」
「おや、おや、ひでえことしやがったもんですな!」
キュルツ氏はそう言って、「チョッ!」と舌打ちをした。
「ところが、この王様は奥さんを死刑にしただけじゃなくて、その肖像まで描かしたんですの」
「まさか、死ぬ前にでしょうな!」
キュルツは大声で笑って、ふくらんだ緑色のズボンをポンと叩いた。
「そりゃそうよ!」
トリュープナー嬢はそう言った。
「生きてるうちだわ、そりゃあ!…」
エーリヒ・ケストナー/小松太郎訳『消え失せた密画』P.39-40

 イギリス国王をヘンリー、神聖ローマ皇帝をハインリヒと、初めから呼び分けている僕らの便利と不便。なるほどヘンリーはハインリヒ、フランスではアンリ、イスパニアならエンリケというわけだ。
 歴史の詳細などどうでもよい善良な肉屋のキュルツ親方は、ヘンリーもハインリヒも一緒くたである。もちろんトリュープナー嬢ははっきり区別しているわけで、ここは原文を見てみたいところだ。彼女が「Henryの宮廷」というのを聞いてキュルツの耳が「Heinrichの宮廷」に変換したのか、それともトリュープナー嬢がキュルツの理解力に配慮して最初から「Heinrichの宮廷」と言ったのか。
 いずれにせよこのやりとりから、「カノッサの屈辱」というスキャンダラスな事件が、ドイツにおいては「誰でも知ってる歴史の名場面」であることが窺われる。

Ω

タラヨウの葉の保存状態

2024-01-24 18:51:42 | 花鳥風月
2024年1月24日(水)

 元日に書いたふりをして、タラヨウの葉裏の謹賀新年を下記に掲げた。



 実際にこれ ↑ を刻んだのは1月3日である。翌日帰京する際にタラヨウの葉を一枝分もち帰り、冷暗所に置いておいた。今日取り出してみたところ、まだ青々と水気を保っているようである。葉裏を引っ掻いてみれば、いくらか硬くて乗りが悪いものの、まだ十分使用に耐える。便利なものだ。
 昔日の人びとは、さぞ重宝したことだろう。


Ω

1月24日 ベーデンーパウエル卿とボーイスカウト

2024-01-24 10:17:00 | 日記
 晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店) P.29

1月24日 ベーデンーパウエル卿がボーイスカウトを設立する

 1908年1月24日、青少年のための野外活動を行う団体、ボーイスカウトの事務局がロンドンで設立された。
 ボーイスカウトは、イギリスのロバート・ベーデンーパウエル卿の刊行した『スカウティング・フォー・ボーイズ Scouting for Boys』という小冊子を通じて広がった野外活動を主体とした青年教育の団体で、世界各国で現在も活動を続けている。
 ベーデンーパウエル卿は、19歳で陸軍見習い士官としてインドに赴任し、軍事的には重要視されていなかった「測量、偵察、斥侯」の方法を学び、後にそれらを体系的にまとめた小冊子『偵察と斥侯(スカウト)』を作成した。その後参加したボーア戦争で軍功を挙げ、一躍英雄となった。
 イギリスに戻ったベーデンーパウエル卿は、著書『偵察と斥候』が教育の場でも取り上げられていることを知り、青少年の教育のために自分の体験を活かした本を出したいと考えた。そこで1907年ブラウンシー島で21人の少年と訓練キャンプを行い、青少年の野外教育プログラムを実践。翌年『スカウティング・フォー・ボーイズ』を発行した。この本は少年たちに熱狂的に受け入れられ、ボーイスカウト運動の基盤となった。

***

 ボーイスカウトのスカウトが「斥候」の意味であることを初めて知った。
 ボーイスカウトに熱中する少年たちが、なぜか親戚筋に多かった。母方の従兄、父方の従弟、年下の義兄、そして甥、いずれも座学の教室ではひたすら息を潜めて力を溜め、体育や野外活動となると、やおら実力を発揮するタイプ。テントを張るだの、焚火を起こすだのとなれば頼もしい限りで、そうした習性は高齢に至っても彼らの生活の基軸となっている。
 僕は自然の中で過ごすのは大好きだが基本的に受け身なので、眺めたり観察したりしていれば十分満ち足り、斥候の能動性を求めることはあまりなかった。ただ、時おり不思議に感じたのは、彼らが自慢げに教えてくれるのと同じことを、父から教わる場面があったことである。
 たとえば、一枚の紙を折ってコップをつくり、これに水を入れて火で温める。火の熱は紙を燃やさず水を温め、立派に湯が沸かせるといったこと。あるいは、暗がりでものを見る時は、視野の中心ではなく周辺で見るのがよいこと。風呂の湯が熱い時には、手首から先を湯から出すだけでよほど熱さがまぎれること。その他あれこれ。
 父はこれらを陸軍幼年学校で教わった。ベーデンーパウエルが退役将軍であったことを知り、深く得心するところがある。
 戦場で将兵として役立つためのスキルと、自然の山野を仲間とともに健やかに楽しむためのそれには、技術的に見て共通する部分がきわめて多い。「眠らない狼」と敵から賞賛され、マフェキングの英雄とも呼ばれた、卓越した軍人ベーデンーパウエルは、何よりもこの点について熟慮に熟慮を重ねたはずである。その実りでもあるのだろう、たとえば下記の解説の中に「愛国心」ではなく「国際愛」が掲げられていることが、何より注目に値する。
 「ちかい」と「おきて」の緊張関係もまた素晴らしく、とりわけ日本語の美しさの中にしっくりとおさまっている。

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 ボーイスカウト運動には次のような特徴が上げられます。
  • 青少年の自発活動であること
  • 青少年が、誠実、勇気、自信、および国際愛と人道主義を把握すること、
  • 健康を築くこと、人生に役立つ技能を体得すること、
  • 社会に奉仕できることの人格・健康・技能・奉仕を4本柱としていること。
  • 幼児期から青年期にわたる各年齢層に適応するよう、
    年齢に応じた部門があり、それぞれのプログラムが一貫していること。
 そしてボーイスカウト教育が他の青少年団体と異なるところは、何よりもそのプログラムにあります。
 それは、「ちかい・おきて」の実践、班制教育、進歩制度、野外活動を取り入れていることです。
 ボーイスカウト教育は、どのようなときにも、どのような場でも、すべての活動は「ちかいとおきて」の実践を基盤において行われています。「ちかい」は、自分自身に対して誓うものであり、また「スカウトのおきて」は毎日の生活の物差しとして自分の行動を律するものです。

  
初代ギルウェルのベーデン=パウエル男爵、ロバート・スティーヴンソン・スミス・ベーデン=パウエル(Robert Stephenson Smyth Baden-Powell, 1st Baron Baden-Powel of Gilwell, OM, GCMG, GCVO, KCB, DL、1857 - 1941) Wikipedia より

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『クアトロ・ラガッツィ』と若桑みどりさんについてE君とやりとりしたこと

2024-01-23 11:52:20 | 日記
2024年1月23日(火)

E君より来信:
 『クアトロ・ラガッツィ』を読了しました。
 少年使節のことだけ書いてあるかと思いきや、信長から家康に至る日本史をキリスト教伝道の盛衰というエピソードから描いた傑作ですね。著者が美術史専門家というのがいい。
 いろいろ勉強になりましたが、とりわけヴァリヤーノは文化交流の先達として尊敬すべき人物だと感心しました。現代の国際交流の仕事でも、こちらから出かけた日本人職員が現地スタッフと一緒に働いている場合、現地人に対して上から目線で接する職員と、親しく友達になる職員と、二つのタイプにはっきり分かれるんです。
 昔も今もスペイン・ポルトガルも日本も変わりませんね。
 少年たちのローマでの日本からの書簡の献上の場面は、以前に見た大使の信任状捧呈式とそっくりです。彼らは当時の日本大使の役割を果たしたんだなあと頼もしく読みました。
 ところで下の写真は数年前のポルトガル旅行で、コインブラ大学を訪れた時のものです。偶然図書館で日本展を開催しており、日本地図などが展示されてました。この本を先に読んでいたらもっと感動したでしょう。
 帰国後の四人が、ローマの思い出にどう向き合って生きたのかと想像してしまいます。ほんとにあの時代だから、ローマに行くなんて夢みたいなことですよね。

 

E君へ返信:
 示唆に富んだ読後感をありがとうございます。帰国後の四人、そうですね、どんなふうにローマを思い起こしたのでしょうか。
 キリスト教信仰をもち続けた三人(伊東マンショ 1612年病没、原マルチノ 1614年のキリシタン追放令でマカオに移り 1629年病没、中浦ジュリアン 1633年殉教)と棄教した千々石ミゲルでは、思い出し方も違ったことでしょう。
 もっとも千々石ミゲルの棄教は見せかけのものであり、実際には潜伏キリシタンだったとの可能性が指摘されているそうで、個人的には十分あり得ることと思います。2017年に遺骸が発見されたようですね。
 海外経験の長かった貴兄は、それぞれの土地についてどんなふうに思い起こされるのでしょう。僕?僕はなかなか変わらない日本の社会を見て「もっと違ったやり方もあるし、変わろうと思えば変われるのだ」と考える時のエネルギーの源を、三年ばかりのアメリカ体験に汲んでいるようです。
 若桑みどりさん、おっしゃるとおりタダモノではない美術史家で、別の調べものをしていて、「こんなのも書いてたの?!」とびっくりしたこと一度ならず。かなりの多作でもあります。まぁ見てください。

     

    
 
     

   

 2007年に71歳の若さで他界なさったのは誠に残念、その後の世界史の流れについて是非この方の発言を聞いてみたかった気がします。『クアトロ・ラガッツィ』の書きぶりから御自身はクリスチャンではいらっしゃらないものかと思っていましたが、御葬儀はカトリック教会で行われたようです。
 つい先日、フランスの風刺画家ドーミエの作品集を探していたら、ここにも若桑さんが出てきました。ドーミエは面白いですよ、この次もっていきますね。


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