この日は三泊四日の横浜での仕事の中日だった。
やや遅めの夜八時過ぎに仕事が終わって一人、泊っている桜木町のホテルに荷物を置いて、ちょっと一杯やろうと野毛に繰り出す。
"繰り出す"と書いたが、そんなに気合を入れているわけではなく"夕飯を食べつつ一杯やれるお店があれば良い"というスタンスだ。
チェーン居酒屋やガールズバーの客引きが並ぶ野毛の小路を歩いていく。
ふと見やるとあるホルモン焼肉のお店が目についた。
店前に出してあるメニューを確認する、なかなか良心的な値段で吞み物もさほど高くない。
今夜はさほどこだわりもないのでこんなのでいいだろう。
店に入ると、はきはきした好青年の店員がすぐに席を用意してくれた。
席に着くと炭火の七輪と取り皿が運ばれてくる。
吞み物はホッピーを、肉は赤タン(タン先)、ホルモンの三点盛を頼んだ。
しばらくして、ホッピーのセットとつきだしのもやしナムルがやってくる。
ちょっとホッピーについてくる焼酎が少なめだが、安いのでこんなもんだろう。
明日は最終日だし、呑みすぎも良くないから、いうなれば好都合だ。
しばらくすると、赤タンとホルモンが運ばれてきた。
まずはタンから焼き始める。
この店は、卓上にほとんど調味料の類を置いていない。タレのビンが一つ置いてあるのみだ。
とてもシンプルなのは肉の味付けに自信があるのだろう。
一枚目のタンが焼けた、ホッピーを一口ごくりとやった後に、タンを口に運ぶ。
良い塩加減だ。タンのギュギュっとした歯ごたえがあるが"赤タン"なので脂肪分が少なく、あっさりしている。
脂が乗った上タンやタン元もいいが、焼肉の口明けとしてはこれが良いかもしれない。
次にホルモンを焼く、牛ホルモン、ミノ、おっぱい(乳房)だそうだ。
これらは脂を落とすようにじっくりと火の弱いところで焼いていきたい。
ホッピーともやしナムルで場を繋ぎながら、じっくりと焼いていく。
一人焼肉ってのはこの肉を焼く時間が何とも言えず良い。
良い時間と一緒にホルモンを噛みしめる。
ホッピーが無くなった。ナカを頼むと先の好青年がすぐにおかわりの焼酎を持ってくる。
若干焼酎を多めにしてもらった方が呑み応えが出るだろうが…未練がましいが、まあ今日はこれでいいのだ。
タン先を焼き、ホッピーをやり、タンを口に運びながら、ホルモンを焼く。
そんなことを繰り返していると、スマートフォンが鳴った。
仕事用のそれではなく、普段はめったに使われないプライベートの方だ。
「誰だ?」と思って表示を見ると"S村"と出ている。
その名前は、かつて私が常連に名を連ねていたバーのマスターだ。
今はすっかりご無沙汰で、年に1度行くか行かないかの店になっている。
そのマスターが何だろう。電話を取る。
「お久しぶりです」というやり取りの後にS村さんが、「Mちゃんが今いるので、代わりますね」
Mちゃんは、私が通っていたころに見せに行くとかなりの頻度で出会う常連の女性。
たしか私より5歳くらい若いのかな?"女性に歳を聞くのは云々"なのでちゃんと歳は聞いたことはないが、そんなものだと思う。
ただ、Mちゃんはスペインに語学留学して、そのまま現地で結婚して今はスペイン在住のはず?
帰国するにしても実家は名古屋の方と聞いているし、わざわざマスターのお店に来たのは何だろう?
そして私に用がある・・・昔話でもしたいのか?
と思っていると、電話がMちゃんに代わる。
「お久しぶりですMです」
「"お久しぶり"という言葉では言い表せないくらいお久しぶりだねえ、話をするのなんて20年近く前でしょ・・・」
なんて話が無駄話だったことは後から気が付くのだ。
Mちゃんが続ける
「実はですね、笑ってやってください。Kちゃんが亡くなりました」
「・・・えっ!?」
悪い冗談だと思いたかったが、Mちゃんはそういう類の話をする人ではない。黙って話を聞く・・・事故だったそうだ。
KちゃんというのはK子さん、Mちゃんの親戚で一時ルームシェアをしていた女性で、たしか私より三つ四つ上だったと思う。
ここからちょっと昔話をする。
牛込にあるマスターの店だが、かつては雑司ヶ谷にあった。
いや、雑司ヶ谷の店はまだあるのだが、そのお店を弟子に譲って自分の店を新たに牛込に構えたのだ。
そう、雑司ヶ谷は私が18から32歳まで済んだ街。
北に行くと池袋、西に進むと目白と山手線の内側にもかかわらず、昔気質の人たちが住んでいる良い街だった。
高校を卒業して都内の専門学校に進学した私は、母方の祖母が住んでいる雑司ヶ谷にアパートを借りた。
専門学校を卒業して就職しても雑司ヶ谷に住み続けた。
当時は高校を卒業したら、18歳でも飲酒や喫煙は不問みたいな空気があったから、酒を呑むのに明け暮れた。
居酒屋でも呑んだし、友人宅で家呑みなんかも楽しかった。
そのうち背伸びして、年上の人に洒落たバーなんか連れて行ってもらうと"いい酒をいい雰囲気の中で呑む"というのを覚えた。
そんな雑司ヶ谷にあったバーがマスターの店だ。
いい雰囲気だな?と思っていたが、なかなか一人で入れる勇気は無く、たしか25歳くらいの時にある女の子と呑んでいた二軒目にこの店に入ったのだ。
女の子の前で「ちょっといい店知ってるんだぜ」とそんな風を吹かせてみたい、今思えば生意気な小僧だった。
マスターは私より2,3歳年下で、かなり若かった。
22、3歳の人がバーのマスターをやっているというのは意外だったが、年が近いだけに話しやすく。自分にとっては居心地のいい店だった。
最初は2,3か月に1回通う程度だったが、そのうち週に2日は通うようになった。
そうなると、常連さん達とも居合わせることが増える。
そんななか特に仲良くなった常連がK子さんだった。
もともとはK子さんは先にも書いたように、この近くに住んでいるOLさん。Mちゃんは当時どうだったか忘れたがすでにルームメイトだったはずだ。
正直ここに書けないプライベートなこともいっぱいあったが、とにかくあの店のおかげで私の雑司ヶ谷ライフは楽しかった。
店に通ったのもそうだが、花見をしたり、お互いの家で料理をふるまったり。
当時は生きていくのに必死だったから、頑張って働いたし、頑張って遊んだ。
そんななかで、ちょっと年は離れてるけど楽しい飲み仲間で友人たちだった。
しかし、いろいろあって、その後K子さんは諸事情で浅草方面に引っ越し。
私も後を追うように結婚して、雑司ヶ谷を離れ千葉は松戸に移り住んだ。
そんな中でも極たまに、K子さんとは連絡を取っていて、たしか3年ほど前には一緒に牛込に移転したマスターのお店に行った。
その後はSNSで挨拶を交わす程度だったが、先日妻と「そういえばK子さんどうしてるかねえ?」なんて話をしていたところだった。
また誘ってみて、一緒に牛込のお店に行こうかなあ?
なんて話していた。
ちょっと連絡してスケジュール調整すれば会えると思っていた。
いろんな思い出が駆け巡った。
もしかするとこれは壮大なドッキリで、Mちゃんの電話口から突然K子さんが出て「ウソだよ~」とかいうんじゃないかと期待した。
でもそんなことはなかった。Mちゃんは
「悲しむよりも笑ってやってください。その方が本人気楽にあの世に行けると思うので」
確かに生涯独身、それなりに自由に奔放に生きたK子さんなので、送り出すのはそれでも良いかもしれない。
Mちゃんはまたスペインに戻り、年末に帰ってくるそうだ。
そしたら都合をつけて、送る会と称して、あの店で集まろうか?
とはいえ、皆さん忘れてないだろうか?
ここはホルモン焼きである。
私はスマートフォン片手に、肉を焼網に乗せたまま出てきてしまった!
それを思い出した!
電話を切って慌てて席に戻ると、肉は焦げておらず、良い感じに焼けたところをお店の人が避難してくれていた。
ありがたい。
気を落ち着ける。
ホッピーのビンが空になったので、もう一回セットを頼む。
例の少なめの焼酎になみなみとホッピーを注ぐ。
献盃。
このあとシビレ(胸腺)を追加して、ホッピーのナカをおかわり。
肉と一緒になにかを噛みしめ、ホッピーと一緒になにかを飲み干した。
勘定を終わらせて店を出る。
笑ってやってください。
Mちゃんの言葉が頭の中を繰り返す。
賑やかなはずの野毛の小路がモノクロになって見えた。
かつての雑司ヶ谷を思いながら歩く。
■最後に
大阪出張記の途中だったのですが、古くからの友人の訃報を聞き、思うがままに思い出と心情を書き連ねてしまいました。
文体もいつものですます調主体から体言止めを主体に変えてみました。
マスターベーションに他ならない文章ではありますが、察していただければ幸いです。