「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

土沢城址

2011-12-07 18:59:39 | 歴史・民俗

 土沢城・・・!・・・あそこに見えるのが土沢城址、いつでも探訪は可能と思いつつも実は一度も探訪というか行ったことがなかった城跡でした・・・

 城館探訪を本格的にはじめて満8年?ようやく辿りついたと云う思いです・・・

 

土沢城・・・(花巻市東和町土沢)

 

大手橋

城館として機能していた時代の水堀の名残がみられますが、当時は水堀に橋が架けられていたといわれる。

 

西端の空堀跡

東和中学校側との境は空堀一重が西~北~東を取り囲んでいる。

 

 

南東側の斜面

舘跡らしい段差が、なんともいえません・・・

 

本丸大手門

門跡の遺構がクッキリと残されている

 

東舘

本丸御殿の南側、一段下がった場所に位置している。

 

東端

空堀によって区切られているが現在は道として利用されている。

畑等、土塁跡としての名残がみられる

 

東部分の空堀跡

 

北側部分の空堀跡

 

本丸

 

本丸御殿の西側続きに中館、さらに西館と連なっている

 

 説明板にもあるとおり、慶長18年(1612)の築城とされ、新堀城(花巻市石鳥谷町)に居た江刺長作隆直が太守、南部利直の命により土沢に移され初代、土沢城主となった。

 慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いの余波は東北地方にも影響を及ぼし、和賀、稗貫の遺臣達による一揆が勃発、この地でも安俵城や田瀬館が伊達勢に支援された旧葛西氏縁の和賀一揆勢の攻撃を受け、さらに口内(現北上市口内)の浮牛城が伊達家の拠点として整備されると、その対抗策に土沢城が南部家により築城された経緯がある。

 城の縄張りは南部家の三戸城や盛岡城の設計に関与したとされる野田内匠頭直盛と伝えられている。

 

 江刺氏は、かつては葛西氏配下で江刺岩谷堂城主であった江刺兵庫頭重恒が豊臣秀吉による奥州仕置で主家、葛西氏と共に没落して南部領であった田瀬(閉伊郡乙茂ともいわれる)に逃れていたが、南部信直に出仕、以後、江刺重隆、さらに隆直(土沢城主)と続いている。

 ※閉伊郡乙茂とは遠野の小友?

 城内や城の南斜面には家臣団の武家屋敷があったとされ、江刺時代から仕えていた家臣達、「三ヶ尻氏、小田代氏、及川氏、猪川氏、城氏・・・」等の同姓複数が確認できますし、稗貫旧臣と思われる高橋氏や和賀旧臣の小原氏の名も確認でき菊池一族である太田代氏も確認できる。

 

 東和町市街地

 

 西の花巻城、東の遠野鍋倉城と共に隣接の伊達家対応の一大拠点という位置付けでしたが、南部利直の子、重直時代にはその重要性が薄らいだともいわれ寛文10年(1670)に土沢城は廃城となったと伝えられている。

 

 一方では、土沢江刺氏第3代、江刺長房時代(正保5)に土沢城は焼失と云われ、盛岡に居を構え後に花巻城代となったとも伝えられる。

 後の天明年間、江刺氏は相続問題等で家禄1千5百石を没収され家名断絶となるも、近親者が召しだされて100石で家名再興となった。

 

 

 なお、土沢は中世当時、「十二鏑、十二ヶ所」と呼ばれていたといわれ、土沢城跡或いはその隣接山野に十二鏑館があったとも伝えられている。

 遠野関連では慶長年間、主家である阿曽沼広長を気仙へ追いやり、遠野盟主となった広長の叔父ともいわれる上野広吉の娘婿のひとりが土沢近在の土豪といわれる十二鏑弾正と語られている。

 十二鏑氏(十二ヶ所)とは何者であったのか不明であるが遠野関連史で名が伝えられている点、さらに「奥南落穂集・遠野家之次第」に「十二ヶ所弾正・十二ヶ所帯刀益種」と記され、何かしら当時の遠野と関連する人物達であったと推測されますし、戦国末期頃、現花巻市東和町の一部に遠野阿曽沼氏の勢力等が影響していた時代があったものなのか?そんな一面が見え隠れする雰囲気が感じらます。

 

 

 

 初冬の頃の城館跡めぐりで身体も冷えたということで・・・

 

ちょっと距離は離れてますが・・・

駒子の湯・・・金ヶ崎町

 

源泉かけ流し、効能は五十肩に良し、さらにサウナも完備・・・これに尽きました。

お湯は熱めで身体がもの凄く温まりました。

時折、堪能したいと思います・・・。

 

 

帰りは・・・

今年は残り一色となるブルーには、お目にかかれないかもしれませんね・・・

 

 

 

 

コメント (8)
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