「遠野旧事記」・・・
江戸時代の遠野の事を遠野南部家臣である宇夫方広隆によって著された本ということになります。
書かれた年代は宝暦12年(1762)とも13年ともいわれますが、八戸から遠野南部氏が遠野へ移って来たのが寛永4年(1627)、それから約130年余後のこととなります。
うれしい事に、素人ではなかなか読み下すことも難しく、さらにそうは簡単に目に触れるような書物ではなかった遠野旧事記を遠野在の小原六郎先生が「やさしい遠野旧事記」を口語訳として2005年に発刊されまして、江戸時代当時の遠野の様子が手に取るような感覚で我々も知ることができております。
その中で寛永4年、八戸から八戸氏(遠野南部家)が遠野へ入部した際に遠野に居た阿曽沼氏旧臣含みの武家達の屋敷を八戸氏家臣等がとりあえず宛がわれた内容が記されておりますが、疑問点や所伝で語られる武家の名とかがわからないといった場面も感じられ、その事について若干記したいと思います。
遠野旧事記には・・・・
場所(屋敷)・石高・家士名・備考・・・の順で記されてますが、当方で順序や内容を若干簡略させております。
原文では例えば「南館 800石 大原新右衛門・・・」とありますが、これは元南館に居た大原新右衛門、800石取りの屋敷であった・・・と解されます。
続いて、中館与四郎屋敷300石、細越与三郎とありますが、こちらも中館与四郎の屋敷は元300石取りの細越与三郎の屋敷・・・という意味ですので、あえて上記の表を並べ変えしております。
なお、石高等は太守である盛岡南部氏の南部利直から賜った内容だと理解している。
さて、まずは南館に居た浜田彦兵衛500石とは何者であったのか?
遠野南部家臣の浜田氏は確認できない、それでは盛岡南部家に仕えて寛永4年以降に南部藩士となって遠野を去った武家なのか?こちらも不明である。
浜田とくれば気仙郡地方に居た千葉氏系の一族か・・・と一番に思い浮かびますが、遠野地方では松崎町光興寺地区に浜田姓のお宅が多くみられる。
気仙郡との関わりがあったかどうかは調べてませんのでなんともいえませんが、ひとつ妄想含みで気になる点が・・・・。
阿曽沼旧臣で後に遠野南部氏、附馬牛八戸氏に仕えた末崎氏との関連性が高いのでは・・・・・。
末崎氏は阿曽沼広長時代、阿曽沼氏の重臣であったと伝えられ、八戸直義(直栄)によって新規に召しかかえられた阿曽沼旧臣であったと伝えられている。
気仙郡内、現大船渡市に末崎町という地名がありますが、この辺りに居た一族で故あって遠野に来住、以前は千葉氏系で浜田氏を名乗っていたのではないのか?・・・これは妄想ですよ・・・汗・・・根拠とする資料もありませんので・・・・。
それと「奥南落穂集」にみえる阿曽沼旧臣名にない武家の存在、こちらも気になるところ・・・・沼荒次郎とは、金新助とは?中沢外記はどうなったのか?宮沢十三郎とは菊池成景(青笹臼館)の末裔なのか?他にも五日市又五郎は五日市に居たといわれる立花 縫の系譜なのか?
いずれ盛岡南部家に仕え遠野を離れた武家も多数存在し、遠野南部家に仕えた武家も確認できますが、まだまだわからない武家もあって、以前から疑問に感じてましたのであえて記述してみました。
まずは南部藩参考諸家系図で調べてみなくては・・・数年前、5巻揃いで確か3万5千円でネット古書で売っていたような?その後、倍の7万円で古書があったことも確認してましたが、どうしても手が出せず・・・今は単品でバラバラに売られており、すべてそろえるには時間と費用がものすごくかかるといった雰囲気、あの時、少し無理していれば・・・と少し後悔している。
とにかく市立図書館に全巻揃ってあるので普段は支障がないのですが、長期休館でかなり難儀しているところです。
素人いうか興味があって少しだけ調べていたに過ぎず、こんな感じでもお役に立てたようで何よりです。
ご家族の前世の件、そして関わっている地域のこと、不思議ですよね。
きっと何かがつながっているものと思われますね。
何かありましたら、またお訪ねくださいね。
早速ご回答いただきましてありがとうございます。
長女はやはり福でよろしかったのですね。
福、千代子、愛などいくつかの名前をネット上で見かけたのですが、よく分からなかったのですっきりしました。
実は、質問させていただいた理由についてですが、私の妻と妻の母が何度かお世話になっている遠野のある方に娘のことを2度ほど拝んでただいたことがあるのです。今風にいうとスピリチュアル的にみていただいたんですね。
2度とも私自身はお会いしていないので、妻から聞いた話ですが、1度目は「この子の前世はお姫さまだったんですね。キラキラした着物を着てる姿がみえます。」と言われたそうです。2度目もお姫さまの話をされて、さらに私の両親の出身を訊かれたそうです。出身が八戸(ちなみに私の母の実家は根城に近いです。)であることを伝えると、どうやら娘の前世の時に私の母のご先祖さまとなにかつながりがあったようなことをおっしゃっていたそうです。
この話を聞いた後、ネットで根城南部について調べて、この千代子姫のことを知ったとき鳥肌が立ちました。
というのは、私と私の両親が八戸、妻が盛岡、妻の両親が(紫波と花巻)、そして前世が姫であることを知ったのが遠野。さらに私の娘の名前が「千福(ちふく)」というのです。
偶然にも福と千代子の字を合わせた名前で、しかも家族親戚が千代子ゆかりの地に関係していたんです。
確かめようがありませんが、娘の前世が千代子なのかもしれないなあと勝手に思い込んでいた次第です。
それで、長女の福のことを質問させていただきました。
ほんとにありがとうございました。
はじめまして・・・
ご質問についてお答えいたします。
あくまでも所伝というか古文書とか記録をきちんと調べた内容ではないのですが・・・
清心尼の長女は福と伝えられております。
太守南部利直の次男、政直に嫁いだとなっております。
政直は若くして亡くなっております。
また清心尼の子は娘3人と云われ、三女は愛といって南部利直の子、利康に嫁いだとされてます。
清心尼は利直の姪、子達も利直の血縁に嫁いで婚姻関係を強固にしていったというところですね。
ある理由で、清心尼の娘である千代子についてネットで出来る限り調べていたところ、こちらのブログを拝見する機会に恵まれました。遠野の歴史にまつわる知識と、その根底にある郷土愛に感服しております。
恐縮ではありますが、もしよろしければご教授ください。清心尼の長女の名前と、なぜ二女の千代子に直義を婿入りさせたのか?長女は早くに亡くなられてしまっていたのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
色々とご考察やらお調べの結果等、すみません。
なかなかこの分野、中途半端なまま停滞させている現状で興味はあるのですが、前に進まないというところで、反応もイマイチですみませんです。
当たりをつけた事柄があるとのことで、ご披露いただける場面となりましたら是非にお聞かせ願います。
松晃院に祟ったのが誰なのかは、一応当たりをつけてますが、まだ仮説の域を出ないので、いずれまた・・・。
お手数おかけしました。
火葬が二月十二日なら、早池峰の神も十月から二月まで火葬の煙を嫌わないと伝わっているようなので辻褄が合いますね。ありがとうございました。
でもこれで、『遠野古事記』にみえる正妻の松晃院の火葬の際の変事の記述が異様なものであるという事が解ってきました。『遠野古事記』には早池峰の因果関係の事など確か書いていないですからね。
『遠野古事記』にある「艮(ウシトラ)の方より遽に暴風吹来り、黒雲起るや否や晴天忽ち掻キ曇り、其雲火屋の近所え渦巻押シ来り、天地雲動して闇夜の如く前後を惘する計リ也、扨こそ魍魎(クハシャ)が障碍を為ならんと、」という記述は竜巻の発生する状況に酷似しているので、三月から九月までというのはその辺に由来するのかとも思いますが、北東の鬼門である艮から来た黒雲は、猫檀家伝説にも見られますし、なにより「船弁慶」で、摂州大物浦で義経主従の乗る船を襲った、平家一門の怨霊の出現と同じであることから、恐らく南部信直の曾孫である松晃院に祟った事を暗示していると思われます。
2月12日に葬儀火葬とあります。
南部直義について良く解らないんですが、彼の没年月日については解らないでしょうか。延宝三年(1675)に没し新穀町の感応院という寺のあった場所で荼毘に付されたというのは引っ張り出せたのですが、その日付がどうしても解らないので、もし解りましたらお願い致します。
寛文元年の松晃院の荼毘の際に変事があったにもかかわらず、同じ場所でというのがどうも疑問に思ったもので・・・。
八戸弥六郎直義の正室で清心尼の二女は千代子でよろしいかと思います。
遠野初代の直義は太守である南部利直の許にあって盛岡城で藩の政務を取り仕切っていたといわれ、国許の遠野では先代の当主で女大名と名高い清心尼が大きな影響力があったようですし、家老達によって遠野政務が行われていたといわれます。
清心尼の夫は八戸直政、父親が八戸直栄、祖父が八戸政栄、母方の祖父が南部信直、伯父が南部利直、なお養子となった遠野初代直義は直栄(なおよし)と改名というか字句を改めております。
火車に関しては、清心尼の父である南部信直の葬儀の際にも変事があった事が、浄法寺の福蔵寺の縁起で知られますので、どちらも未遂とはいえ、いずれも南部藩の重要人物が地獄の火車に狙われたんですから、二つの事件には何か理由があったんでしょうね。
猫渕神社関連、今後の考察、楽しみにしております。
お力になれるかどうかわかりませんが今後も何かありましたら、ご教授よろしくお願いします。
九州菊池氏と猫淵神社を結ぶのは、兵主神関連と思われますが、自分は矢作猫淵神社を守る梅木(※本姓・村上氏・浜田安房守重臣・気仙三十六騎村上平兵衛の末)家と気仙沼の宝鏡寺の大旦那であった気仙沼赤岩城主熊谷氏一族との関連に着目しており、この熊谷氏からは水沢区黒石の曹洞宗東北大本山、正法寺二世であり、横山不動尊の申し子とされる月泉良印禅師と正法寺三世虎渓良乳禅師(伝、宝鏡寺開山)が排出されていることから、猫淵神社はこの関係なのではないかと睨んでます。九戸に関しては大慈寺か火車に襲われた伝承を持つ、松晃院から攻めてみようとおもうので、懲りずにまたご教授願います。
以前当ブログでも気仙郡内の猫渕神社探訪を行ったことがあります。
過去記事にあねと思いますが、住田の猫渕神社では菊池一族に関して出てきた記憶が・・・う~ん、最近は歴史から離れてるから書籍や集めた資料をひっぱり出すのも一苦労・・・(^_^;)・・・何よりも老眼で見え難いです・・・笑
http://blog.goo.ne.jp/jengo2/e/e0ca59265deef0a8da44fa95dc90db1f
当ブログも以前は歴史モノも充実というところで上記URLで検証というか考察した経緯があります。
豊臣時代に南部領の主な城館を廃却したとの内容で豊臣政権での一国一城の方針に沿った内容が聞老遺事に記されておりますが信ぴょう性とともに江戸記書かれた内容とのことで真におけない可能性が多々感じられとか。
九戸左馬助 唐之伴・・・秀吉による朝鮮出兵に関わった人達という意味合いで九戸左馬助に関しては果たして実在の人物であったのかどうか?少し詳しく調べてみようと思いましたが途中で挫折、ですから遠野と九戸の関わりは不明です。
東禅寺に関しても遠野の古刹といわれますしその史跡も残されるも事跡に関しては口伝が主でどの段階で盛岡に移されたのか?不明な点も多いです。
城館跡を好きで調べてましたので消えゆく史跡に関しては寂しい限りです。なんとか発掘調査の結果を形として残していただいて、興味ある方々の参考になるようしていただきたいと思います。
こちらも、猫渕神社考に心血注ぎまくってますが、震災の高台移転による整地工事で、広田の花輪館、越喜来の小出館の跡などが失われる予定なので、事前に発掘調査が行われるとはいえ、さみしい限りです。
さて、猫の神社を調べる過程で、九戸政実の乱が猫伝説の成立にどうも関わっているんじゃないかと考えているんですが、遠野と九戸氏の繋がりを探しているうちに、「横田山城破 信直抱代官 九戸左馬助 唐入共」という記述を見つけたのですが、この人物について何か分からないでしょうか。少し難しい質問になりますが、九戸政実と遠野の繋がりに関して手がかりがないか調べておりますので、もし何か分かりましたらご教授願います。
たいへんご無沙汰でした。
今はあまり郷土史分野の方に触れてはいませんが、それでも興味ある世界なのでコメントがあれば反応してしまいます。
遠野阿曽沼氏の旧臣、浜田氏関連・・・米崎の千葉一族それも宗家の四男とのこと、さらに遠野の小友に居たということでなるほどという思いです。
また末崎氏も気仙郡関連、本宿氏に関してはやはり気仙郡からの来住であるのは一応明らかになってます。旧姓は鈴木だったような?本宿は遠野にある地名からのようです。後に南部利直家臣となり盛岡南部藩士となっております。
色々とご教授ありがとうございます。
何かありましたらまたお願いします。
近世こもんじょ館による取材ですか、これは凄い・・・近世こもんじょ館の○藤先生とかはいち早くネット世界での郷土史関連の充実を図られ、普段はなかなか見れない古文書のデータ化といいますかネットから我々のような趣味や素人研究家の目にも触れるような試みを以前から構築しており、遠野の郷土史界はこういった分野での夜明けはまだまだなのかもしれません。
遠野でも実績ある郷土史家の先生は存在しているはずですが、一般からみて誰がそうなのか?どんな活動をされているのか全く分からないが現状だと思います。
今の時代、ネット社会も大いに利用すべきだと思いますが、ネットでのやりとりは決して低俗だとは思いませんし、ようはやりようですからね・・・。
しばらくはビナヤカさんの頑張りも必要だと思います。
ドンキホーテさん、有り難く使わせて頂きます♪もしお気づきの点が御座いました是非にご教示下さい♪
お舘さま、近世もんじょ館の方々がこの文書に興味を示し、撮影していったというのに、
…これは遠野の歴史古文書です…しかし、郷土ではまるで鼻も引っかけないとは…誰か、郷土史家の方で、遠野南部に於ける武芸・武道の研究者はいないものでしょうか…♪
実際、住田に負けない一火流火縄銃鉄砲隊が遠野にもあったという記録があるというのに…残念です…
また何か分かりましたら、掲載します^^♪
こちらこそ、よろしくお願いします。
当ブログは歴史モノは、ほんと時たま、割合が少なくなりつつありますが、アップの際はご教授含めご感想等もどうぞよろしくお願いします。
これからはお二人のブログを時たま、覗きに来ますので、今後もよろしくお願いいたします。おやすみなさい。
講座は古文書関係でしたか・・・少しでも古文書を自分で解読やら紐解ければ、さらによろしいですからね、まずは読めなければ始まりませんしね・・・いつか当方も古文書関係の勉強をしなければ・・・と思ってます。
ドンキホーテさん・・・ビナヤカさんのお申し出、よろしくお願いします。
講座って、古文書の講座です^^、でもどっちが楽しみで行くのか分からなくなっています…(笑)
ドンキホーテさん、こんにちは^^、またまた新情報ありがとうございます♪
ところで、この前の御説ですが、ブログに使わせて貰ってもよろしいでしょうか?…
ありがとうございます。
歴史関係、そして東北の城跡も・・・これは是非に今一度岩手へお越しください・・・というか規模は小さいですが知られざる遠野の城館跡も数多く残されている遠野へ機会がありましたらお越しください。
ビナヤカさんも遠野のご出身、城跡探訪の後は一献傾けながら皆で歴史話で・・・是非によろしくお願いします。
ビナヤカさん、出しゃばったコメントとは思いましたが少しお役に立てて参考になって良かったと思っています。原文にもう少しそって正確に訳することも出来たのですが意訳ですいません。
当方も歴史好きで九州の菊池家のことなども調べたり、最近は城址などを訪れることが多いのです。私は関東の城址などが多いのですが、住宅などで遺構が残っていなくて東北地方は山城が多く遺構も保存状態が良く素晴らしいですよね。
どうしても、戦国から幕末までの歴史は東北がなおざりにされているけど、残念ですよね。
そうだ、あとで調べたら、一火流砲術の宗家が東京にあり、現在でもそのお弟子さんが岩国市で火縄銃の祭りを指導しているらしいです。そこらを手繰っていくと儀良という砲術家のことも判るかも。
なにか、また、遠野にでも旅がしたくなりましたよ。皆さんの湧きわきとしたコメントなどを見ていると。
では、又、なにかのおりに。
そうでしたか、あの時、鮎貝でお会いした方でしたか・・・講座とは・・歴史の講座ですか?・・・しばらくそうした講演やら講座といった先生方からお教えいただく場面が少なくなりましたが、機会をみつけて私も受けてみたいと思います。
仲間とか同好の方と語り合う、意見交換も含めて楽しいものですよね・・・うらやましいです。
来月一杯、土・日はお会いすることになります
(笑)
面白いもので、講座が終わってから、二人の「座談会^^」が喫茶ルームで始まり、その時間ときたら、本家本元の講座の時間より長く…そして熱くしゃべりまくる訳です(爆笑)
ドンキホーテさんに感謝ですね・・・笑
山城で遭遇した方、小友の鮎貝舘かな?あの時初めて同好の士と遭遇したことを今でも思い出します・・・あれ以来、同好の士とマイナーな山城で遭うという偶然は一時もありません・・・汗・・・確か盛岡の人だったと思いますし、岩手の城館跡探訪のトップの方で活躍されている方であったと記憶しております。
いつか機会がありましたら、その方も含めてひとつ何処かを探訪したいものです・・・ホントに・・・。
しばらく、PCを離れていました、遅くなりました…・
先ずは、お館さま、ありがとうございました、行き違いになりましたが、ドンキホーテさんの仰有ることで正しいかったです♪
実は、今日、お館さまと攻城時に山でにお会いしたという方と偶然お会いしました…(笑)
(また、明日も会うことになりますが…(笑))
そのうち、遠野に行かなければと思っています♪
(先週、仏事で行ったばかりです、お館さまの後輩が受け付けしていました^^、おっと不謹慎な^^はなかってですね…)
仔細は了解です。
ビナヤカさんには当方から、コメントしときましたので、こちらで返信がくるのではと思います。
幕末辺りとか、その辺の時代も実は興味があって南部藩関連も少しは調べたつもりでしたが、今回のは手をつける気がおきませんてした・・・というよりほとんどわかりません、何の資料から紐解くべきか?ちょっと忙しいのもあるし面倒なのは最近どうも・・・そんな感じでしたからありがたいです・・・謝
今後少しでも以前のように歴史関係も本気になれたら・・・そんな気がして参りました。
この度は、すばらしい解説痛み入ります。
彼の古文書ですけど。
一火流砲術と読むのが正しそうで、この砲術は武田家臣で作られた甲府に行く街道を守るために作られた八王子千人同心が用いた砲術法では無いでしょうか。
ですから火縄銃のもの。天保七年では西洋銃のミゲール銃などの知識は南部では無理ですしね。
題目「一火流鉄砲間積」は多分
「一火流の鉄砲距離間照準のまとめ」では
5間(約10Mの)星(的でしょう、大きさは1.5センチの○で3センチの四角に入っているのは○の下の半分(半月)を狙う。これは先にお教えした(口でお伝えした)とうり。
7間はお分かりのように、これもさきにお教えした。
10間は的○より5分(1,5センチ)ほど下を狙う。
(距離が短い時は、弾が、少しポップアップするので的より少し下に照準する。)
**こんな感じで的の距離が遠くなるにつれ照準の位置を上に持っていく。(どうも25間位で○を狙い、その後は弾の威力が無くなっていくので、丸の上を狙っていくようですね。多分)
ですから江川とは何ら関係なさそう・
これらはすべて憶測。
とらねこさん。ビナヤカさんにコメントするのも良いかなと思いましたが、突然、彼にコメントしたらまずいかなと。
ブログは良く見てますよ。乾杯は懐かしくてニ回も聞いてしまいました。笑い。
少しご無沙汰でした。
リンクされている記事の件、了解ですがちょっと見当もつきません・・・汗
機会がありましたら調べてみます程度でご勘弁願います・・・謝。
お館さま、ご無沙汰しております♪
まだ、調べもしていないことですが、せっこぎして…(笑)
ご存じの事が御座いましたら、ご教授願います♪
http://blogs.yahoo.co.jp/syory159sp/25733970.html
図書館はオープンしております。
利用できないと思うと不便に感じ、再開したらしたで、それほど出向かない・・・そんなもんですが、今年もいつもどおり利用したいと思います。
金氏に関してありがとうございます。
新助さんを探して確認したいと思ってます・・・笑
遠野の武芸に関しては折をみて調べたいと思います。
重ねて本年も色々とご教授いただければ思います。
よろしくお願いします。
私のブログの書庫「古文書」に載せた、『柳剛流目録』。
この「柳剛流」という兵法について…遠野南部家に伝わる武芸で聞いたことはないでしょうか?
図書館もオープンしましたでしょうか。
挨拶も遅くなりましたが、今年も宜しくお願いします。
たまに覗いてはおりましたが、あまり得意な分野でもなく、コメント出来ずに失礼するだけでした。
そんな中で、このコーナーをクリックして興味のある分野が登場して、慌ててコメント申し上げます。
『それと「奥南落穂集」にみえる阿曽沼旧臣名にない武家の存在、こちらも気になるところ・・・・沼荒次郎とは、金新助とは?中沢外記はどうなったのか?』
この部分ですが、この中の「金新助」という人物です。
私が以前に調べた人物と同一人であれば、この人は「金」姓でお馴染みのように気仙郡に根を張る金一族の末裔で、葛西氏に仕えていましたが、葛西氏滅亡後、その金氏の庶流かも知れませんが横田邑に出て来て、直栄に仕えることになり、「金新助」の「金」を改め「○○新助」を称した人物かと思われます。
3万9千円とはお買い得でしたね。
小生、3万5千円の時に手にいれておけばと後悔しきりです。
当時は図書館に全巻揃いであったものですから別にいいや、という思いが強いのも正直なところですが、家に居ながら調べることができる、これに勝るものはありません。
それ以来かなり愛読していますが、個人的には「南部藩参考ショック家系図」と呼んでいます。