前回は天正年間に織田信長に白鷹を進上(信長公記・巻12)したと記録される遠野孫次郎とは?遠野領主であった阿曽沼広郷なのか?それとも伊達政宗なのか?という疑問点を若干記してみましたが、今回は遠野と南境を接していた葛西氏との関係から私見として紐解いてみたいと思います。
○葛西晴信文書登場の遠野孫次郎
葛西晴信文書という膨大な資料が存在するが、しかし葛西文書といわれるその9割は偽文書との見解が示され、その信憑性も極めて疑わしいといわれている。
葛西氏は現在の宮城県北部から岩手県南部地方を領した武家で、胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿の5郡、さらに本吉、桃生、登米の各郡を勢力下した奥州の大身でしたが、葛西晴信は葛西第17代、最後の当主といわれている。
天正18年豊臣秀吉による小田原攻めに参陣しなかった為に奥州仕置きにより所領没収の憂き目となり没落という歴史ではありますが、押し寄せる豊臣軍を迎撃し、華々しくその最後を飾ったとの如く伝えられるも史実では奥州を去り加賀前田家に庇護され彼の地で没したのが真相のようでもある。
かつては中奥に君臨し、大身であった葛西晴信の没落があまりにもあっけなかったものなのか、その栄華を何かで誇示するかのように、勢力下の各郡主等の武家に宛てた文書が偽装され、その歴史を伝える価値ある古文書として売買の対象に成りうるということで、数多くの偽文書が世に出たものと考察されている。
このことにより、文書の9割方が偽文書といわれる所以でもある。
しかし、そんな中で、葛西晴信香炉印文書の存在があるという。
葛西晴信から発せられた永禄2年(1556)から天正19年(1591)までの122通を数えるという。
その中で南部寛政記録に収められ、遠野市史・住田町史にも引用記載されている遠野孫次郎への文書がある。
天正15年(1587)10月26日付、葛西晴信から遠野孫次郎に宛てた手紙である。
住田町史訳によると・・・
「先日、どうされているのかと思い遣いの者をやりましたが、お返事もなく心許なく思っておりました。従って来る11月2日に信安を世田米まで下向させるので、大儀なことであるが、世田米まで来ていただきたい。鱒沢の件には油断なきようしてください。」
世田米とは気仙郡の世田米、現在の住田町世田米のことだと認識できる。
また、世田米に来てほしいということで、ここはやはり隣接する遠野へ手紙を送ったと見るべきだと思いますし、ほぼ間違いないように思える。
すなわち、遠野孫次郎はその当時の遠野領主である阿曽沼広郷を指しているものと思われますし、鱒沢という名が登場、鱒沢は阿曽沼支族の鱒沢氏で、この時代、阿曽沼主家と分家である鱒沢氏の力関係が拮抗して互いに争いがあったと伝えられますので、この文書の内容はその時代に関して一部とはいえ、よく現しているのではとも思います。
この手紙が葛西文書における偽文書でなければ、遠野孫次郎の名が登場する唯一の信頼できる史料となり得ますが、どうなんでしょうね・・・・。
今少し、さらなる詰めも必要でもあり、他の資料での遠野孫次郎の発見もしなければと思うところです。
以上
おまけ
お盆の帰省で長女が帰ってきている。
夏休みながらも、のんびりだらりと過ごしている末娘と愚娘の長女、とんでもない組み合わせとなり、暇を持て余しているのか、その矛先は飼猫ネネに・・・
暑いだろう、汗を搔いただろうと・・・と大人しく寝ているネネを丸洗い、シャンプーの良い香りが漂うも、ネネにはその匂いはどう感じるのだろう・・・。
たまにはシャンプーは必要ですが、いきなり濡れネズミならぬ濡れネコは可哀想ですよね。
○葛西晴信文書登場の遠野孫次郎
葛西晴信文書という膨大な資料が存在するが、しかし葛西文書といわれるその9割は偽文書との見解が示され、その信憑性も極めて疑わしいといわれている。
葛西氏は現在の宮城県北部から岩手県南部地方を領した武家で、胆沢・江刺・磐井・気仙・牡鹿の5郡、さらに本吉、桃生、登米の各郡を勢力下した奥州の大身でしたが、葛西晴信は葛西第17代、最後の当主といわれている。
天正18年豊臣秀吉による小田原攻めに参陣しなかった為に奥州仕置きにより所領没収の憂き目となり没落という歴史ではありますが、押し寄せる豊臣軍を迎撃し、華々しくその最後を飾ったとの如く伝えられるも史実では奥州を去り加賀前田家に庇護され彼の地で没したのが真相のようでもある。
かつては中奥に君臨し、大身であった葛西晴信の没落があまりにもあっけなかったものなのか、その栄華を何かで誇示するかのように、勢力下の各郡主等の武家に宛てた文書が偽装され、その歴史を伝える価値ある古文書として売買の対象に成りうるということで、数多くの偽文書が世に出たものと考察されている。
このことにより、文書の9割方が偽文書といわれる所以でもある。
しかし、そんな中で、葛西晴信香炉印文書の存在があるという。
葛西晴信から発せられた永禄2年(1556)から天正19年(1591)までの122通を数えるという。
その中で南部寛政記録に収められ、遠野市史・住田町史にも引用記載されている遠野孫次郎への文書がある。
天正15年(1587)10月26日付、葛西晴信から遠野孫次郎に宛てた手紙である。
住田町史訳によると・・・
「先日、どうされているのかと思い遣いの者をやりましたが、お返事もなく心許なく思っておりました。従って来る11月2日に信安を世田米まで下向させるので、大儀なことであるが、世田米まで来ていただきたい。鱒沢の件には油断なきようしてください。」
世田米とは気仙郡の世田米、現在の住田町世田米のことだと認識できる。
また、世田米に来てほしいということで、ここはやはり隣接する遠野へ手紙を送ったと見るべきだと思いますし、ほぼ間違いないように思える。
すなわち、遠野孫次郎はその当時の遠野領主である阿曽沼広郷を指しているものと思われますし、鱒沢という名が登場、鱒沢は阿曽沼支族の鱒沢氏で、この時代、阿曽沼主家と分家である鱒沢氏の力関係が拮抗して互いに争いがあったと伝えられますので、この文書の内容はその時代に関して一部とはいえ、よく現しているのではとも思います。
この手紙が葛西文書における偽文書でなければ、遠野孫次郎の名が登場する唯一の信頼できる史料となり得ますが、どうなんでしょうね・・・・。
今少し、さらなる詰めも必要でもあり、他の資料での遠野孫次郎の発見もしなければと思うところです。
以上
おまけ
お盆の帰省で長女が帰ってきている。
夏休みながらも、のんびりだらりと過ごしている末娘と愚娘の長女、とんでもない組み合わせとなり、暇を持て余しているのか、その矛先は飼猫ネネに・・・
暑いだろう、汗を搔いただろうと・・・と大人しく寝ているネネを丸洗い、シャンプーの良い香りが漂うも、ネネにはその匂いはどう感じるのだろう・・・。
たまにはシャンプーは必要ですが、いきなり濡れネズミならぬ濡れネコは可哀想ですよね。
これはなんて生き物ですかッ?
・・・と、思いたくなるほど「洗った」どーぶつは変貌を遂げますよねー
ネネたんの濡れた毛に萌えッ!
おはようございます。
毛がピタッーとして別な生物みたいですね・・・笑
ネネはサッパリしたのだろうか?迷惑な顔附きしてました・・・笑
顔も一応撮影したんですが、毛づくろい中で顔が動くもんでボケ画像として採用しませんでした。
犬の小さいので、よく見る種類がありますが(種類がわからない)そんな顔つきになってます・・・笑
しばらくは、お盆休暇に入り、墓参りに行かなくては!!。
お戯れを・・・葛西晴信文書に出てくる遠野孫次郎はある程度知られた内容ですが・・・まだまだ信憑性含めて実はよくわからないが現実ですが、今後も精進したいと思いますし、ご教授よろしくお願いします。
お墓参りで遠野へ帰省ですか。
道路等混みあいますのでお気をつけてお越しください。
遠野孫次郎が書かれた文書、偽文書でなければ・・・と切に願います。
濡れ猫ネネ殿、写真を見た瞬間いつものふわっとした毛並みじゃなかったので「えっ!?」って感じでした。
なるほど、強制入浴させられたんですね^^;
葛西晴信と遠野孫次郎、この文書の通りなら遠野孫次郎が遠野阿曽沼氏ということになり得るのですが、これらを裏付ける別な史料もみつけなければと思うところです。
猫もたまには身体を洗ってあげないといけませんが、それでもいきなり捕まえられて強制ではかなわないと思います・・・笑