官公庁では仕事始め、正月3ヶ日もあっという間ですね。
本日は休みでしたが、午前8時からの仕事始式に望み、その後帰宅して末娘のクラブ活動も再開ということで、中学まで送っていった帰り、どうしても初詣をしたいと考えていたとある場所へ向う。
後醍醐天皇社・・・土淵町飯豊
遠野での城館跡としては大規模で、しかも遺構等もよく残され、多くは伝えられていないが興味深い伝承が語られる花館、その花館の存在を知ったのが2年前、その際に宮沢、飯豊といった地域の謎めいた中世の歴史に着目する自分がおりましたが、熊野神社の他に後醍醐天皇様とよばれる社の存在をはじめて知りました。
先人の郷土史家達も飯豊地区、隣接の青笹町沢田地区に至る地名等で引っ掛かりがあったらしく、私同様に宮沢、大将洞、君洞、花館と続く史跡の数々に南北朝時代の吉野朝、すなわち南朝方の匂いを感じ取っていたようでもあります。
そんな中で拙ブログでも時折取り上げておりますが、宮沢の興り・・・・
こちらをご参照ください
こちらもご参照ください
さて、嫁さんの実家が別当である後醍醐天皇社、遠野広しといえども後醍醐天皇を祀った社は存在しない。
建立は昭和の初めと伺っているが、花館との関連での宮沢地区を調べた際に何度か社を訪ねている。
昨年11月末に宮沢館跡を探訪調査をしましたが、思い切って社の扉を開けて御神体が何であるのか、棟札のようなものはあるのか、調べてみました。
すると祠の中は何も入っていない、驚きというよりも単なる口伝での社なのか?と疑いたくなりましたが、このことを義母に告げておりました。
「御神体も何も入ってないガランとした祠だっけす」と嫁さんの母親に告げましたが、義母も気になったらしく、新しい祠脇の朽ち果てた祠近辺を探したということですが、薄っすら積もった雪の下、さらに掘り下げた落葉の中から一編の木片を見つけ出したそうです。
紛れもなく棟札のようなもので文字が大体判別できる程度、迷わず義母はこれを福泉寺に持って行って見てもらおうと思い、さらに新しいものを作っていただこうと思ったそうです。
福泉寺住職と奥様は棟札を見るや、これは先代住職宥然和尚が書いたものだと断定したとのこと。
祠の内部
後醍醐天皇社建立にあたり、何故当時の宮沢家の人々は棟札を福泉寺にお願いしたのだろう・・・・。
祖母の話によると集落で流行病が流行した際に修験の人か拝み屋さんが来て、宮沢家本家に後醍醐天皇様を御祀りするようにと言われたから・・・と伺っていますが、当時福泉寺は開山20年程度の新しい寺院、しかも祈祷寺で地元駒木地区や檀家が多い小出地区以外は、まだまだ馴染んでいない存在だったと思われますが、社建立を勧めた人による指示なのか、それともこういった分野は福泉寺であると地域では認識いたのだろうか?
福泉寺開山に関り、以来最も繋がりが深い我家、福泉寺と後醍醐天皇社を介してはいるが飯豊宮沢家より嫁いで来た嫁さん、のろけ話ではないですが、結婚20年経過で始めて知った由縁、何処か鳥肌の立つ思いでもあります。
見えない縁があったものなのか・・・・汗・・・・歴史を紐解くはずが別方向へと話が展開してしまいましたが、後醍醐天皇様は私がいずれこの社に来ることを知っていたかもしれませんね・・・・汗
本日は休みでしたが、午前8時からの仕事始式に望み、その後帰宅して末娘のクラブ活動も再開ということで、中学まで送っていった帰り、どうしても初詣をしたいと考えていたとある場所へ向う。
後醍醐天皇社・・・土淵町飯豊
遠野での城館跡としては大規模で、しかも遺構等もよく残され、多くは伝えられていないが興味深い伝承が語られる花館、その花館の存在を知ったのが2年前、その際に宮沢、飯豊といった地域の謎めいた中世の歴史に着目する自分がおりましたが、熊野神社の他に後醍醐天皇様とよばれる社の存在をはじめて知りました。
先人の郷土史家達も飯豊地区、隣接の青笹町沢田地区に至る地名等で引っ掛かりがあったらしく、私同様に宮沢、大将洞、君洞、花館と続く史跡の数々に南北朝時代の吉野朝、すなわち南朝方の匂いを感じ取っていたようでもあります。
そんな中で拙ブログでも時折取り上げておりますが、宮沢の興り・・・・
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さて、嫁さんの実家が別当である後醍醐天皇社、遠野広しといえども後醍醐天皇を祀った社は存在しない。
建立は昭和の初めと伺っているが、花館との関連での宮沢地区を調べた際に何度か社を訪ねている。
昨年11月末に宮沢館跡を探訪調査をしましたが、思い切って社の扉を開けて御神体が何であるのか、棟札のようなものはあるのか、調べてみました。
すると祠の中は何も入っていない、驚きというよりも単なる口伝での社なのか?と疑いたくなりましたが、このことを義母に告げておりました。
「御神体も何も入ってないガランとした祠だっけす」と嫁さんの母親に告げましたが、義母も気になったらしく、新しい祠脇の朽ち果てた祠近辺を探したということですが、薄っすら積もった雪の下、さらに掘り下げた落葉の中から一編の木片を見つけ出したそうです。
紛れもなく棟札のようなもので文字が大体判別できる程度、迷わず義母はこれを福泉寺に持って行って見てもらおうと思い、さらに新しいものを作っていただこうと思ったそうです。
福泉寺住職と奥様は棟札を見るや、これは先代住職宥然和尚が書いたものだと断定したとのこと。
祠の内部
後醍醐天皇社建立にあたり、何故当時の宮沢家の人々は棟札を福泉寺にお願いしたのだろう・・・・。
祖母の話によると集落で流行病が流行した際に修験の人か拝み屋さんが来て、宮沢家本家に後醍醐天皇様を御祀りするようにと言われたから・・・と伺っていますが、当時福泉寺は開山20年程度の新しい寺院、しかも祈祷寺で地元駒木地区や檀家が多い小出地区以外は、まだまだ馴染んでいない存在だったと思われますが、社建立を勧めた人による指示なのか、それともこういった分野は福泉寺であると地域では認識いたのだろうか?
福泉寺開山に関り、以来最も繋がりが深い我家、福泉寺と後醍醐天皇社を介してはいるが飯豊宮沢家より嫁いで来た嫁さん、のろけ話ではないですが、結婚20年経過で始めて知った由縁、何処か鳥肌の立つ思いでもあります。
見えない縁があったものなのか・・・・汗・・・・歴史を紐解くはずが別方向へと話が展開してしまいましたが、後醍醐天皇様は私がいずれこの社に来ることを知っていたかもしれませんね・・・・汗
土渕調べを始める以前から飯豊は土渕の他所とは違う雰囲気を感じていました。何がどう違うと言葉で表現できない何かを。単に鶉子峠を越えた先の開けた所という地理的な見た目だけではないような気がしています。自分もこの地は調査を始めたばかりですから何もわからないですが。正直、この地は後回しにしようと思っていました、めんどくさそうなので。この地域は古過ぎるんですよ。村誌等で何も附記されてない理由が分った気がしましたよ。私が自力で調べられるのはせいぜい19世紀後半くらいですから…。
飯豊地区、土淵というよりも青笹の沢田地域との関連やらが強い地域だと思ってます。
さらに葡萄峠を通じての笛吹峠、さらに六角牛山・・・特に六角牛と大きく連動する何かもあるのではないのか・・・・なんて妄想が強いものですが、花館の存在やらをみると大きな勢力がその昔あったような雰囲気も感じられます。
まずはいきなり江戸時代を飛び越して中世というのも分かりづらい内容でもありますから、近い年代から徐々に・・・・その先に私が調べている中世と結びつけば少しは発展があるかもしれませんね。
後醍醐天皇様は昭和の初め頃の勧進でして、後醍醐天皇を祀る吉野神社も明治に入ってから・・・おそらく明治政府による南朝正統論からくるものも考えられますが、新しい社ということで、江戸期における修験等の霞場との関連はないと考えます。
以前から難解な地域で手をつけるのをためらっていたことは存知あげております。
江戸期の中期、後期は今淵勘十郎家の歴史を紐解くがひとつの鍵になりそうな雰囲気ですがいかがですか?修験の人達にとっての大檀那というべき支援者とか後援が必要不可欠と思えるのですが・・・・といいつつも私は飛び飛びにての室町時代辺りを彷徨っておりますが、やはり妄想付きですが、この年代が怪しい雰囲気、aboutさんではありませんが、うまく双方で調べる内容が繋がればいいのですがね・・・・。
南朝とゆかりが深い土地柄、何かがあったんでしょうか?
それとも、明治以降のなにかなのか、城館跡も含めて謎は深まるばかりですね。
遠野の中世期は共に探訪する館でもわかるように謎が多い過ぎです。
特にこの界隈は宗教的にみた場合は難しいというように、地区内のお宅の殆どが社を持っておりますが、その大元が分からないといったこともあげられると思います。
さて、以前探訪した花館に関連した地域ですが、花館の館主に宮沢左近という名が伝えられております。
すなわち飯豊地区の宮沢集落に無関係ではなさそうですが、これもあくまでも伝承で確信に至らずです。
ところで左近という名の館主は遠野市内の館に多くみられます。
このことはまた後日に・・・・。
そこに住む者にとっては鳥肌ものです。
何故、飯豊の地名になったのか・・・・
宮澤の地名となったのか・・・・・
大字飯豊としての歴史の検証がなされそうで楽しみにしております。
本来なら出回ってはいけない壬申戸籍もとある方がお持ちですし・・・・
我先祖に関しても・・・そして宮澤家のルーツも気になりますね。
飯豊はなんといっても勘十郎どんを最初に調べるが必要かと考えておりますが、皆さんに返信しているとおり南北朝から室町、戦国へ彷徨う我が身であります。
宗教、伝承、史跡、古文書・・・これらが一体になることは無きに等しいですが、どれでも繋がりがあればそれなりに見えそうな感じでもあります。
皆さんでもう一歩踏み込んで少し本格的にやれればと思うところです。
追伸、初笑のごえもんちゃん、ゴエ河童さんのイメージに近いので爆笑。そーいえば、以前写真で紹介した
蝦夷の塚の画像を見せたら「よくみえないけど開発とかやめたほうがいいいなあ」と漏らしてました。
こちらの後醍醐天皇様は昭和の初め頃の建立、しかし勧めた方には何か南北朝時代の姿とかが見えたのでしょうかね?
ゴエ河童さんの霊視に何かしらその関連が見える可能性もあって、よろしくお願いします。
蝦夷塚含み道路敷設や河川工事も少なからず開発工事が行われている昨今、止めようはありませんが、これ以上の開発行為、注視していきたいと思ってます。