遠野物語発刊100周年、明治43年(1910)柳田國男が著した遠野物語が発刊され来年(2010)が100周年記念ということで、各種イベント開催に向けての準備が着々と進行中といった遠野であるが、遠野物語が世に出される前年、明治42年8月末に柳田國男は遠野を訪ねており、柳田國男が遠野を始めて訪れて今年が100年といった記念すべき年でもある。
柳田國男が遠野を訪れ、その印象は遠野物語序文に記されているが、その中のひとつ、天神の山への道・・・考察されるルートに少しだけ疑問点があったものですから、今回、その道すがらを少し訪ね、また関係書籍等も概略ではありますが今一度目を通しましたので、これらの考察も交えてご紹介いたします。
≪遠野物語・序文≫ 一部のみ記載
此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。
明治42年の2月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。
・・・途中略・・・
昨年8月の末自分は遠野郷に遊びたり・・・・略・・・・
※明治42年(1909)8月23日~27日まで遠野に滞在
明治42年8月25日(火)
柳田は宿泊していた高善旅館の主人より馬を借り、附馬牛方面へ向かったようでもある。
その行程は・・・
高善旅館を出て大工町→中組町(枡形址)→下川原橋(下早瀬)→明神前(加茂神社)→地の森→蓬田→町田橋(宮代橋)→宮代→松崎観音前→忍峠麓(松崎沢ノ口)・・・・
上記の内容が「柳田國男遠野紀行・遠野常民大学 著」に記されている。
松崎沢の口石碑群
「路傍に石塔の多きこと諸国其比を知らず・・・・」
柳田の今回の行程では案内人が居たといわれ、土淵在の北川真澄氏という人物で佐々木喜善の友人とされる。
前日に土淵の山口を訪ねているが、この際に北川と会い、翌日に附馬牛方面の案内役となって、おそらく忍峠入口近く、石碑群の上方の茶屋で待ち合わせをしたのではないのか?と考察されている。
忍峠の茶店は峠中腹の清水の湧き出る辺りに、かつて2、3軒があったといわれ、大正期までは朽ち果てた廃墟が確認できたとも語られ、峠下の茶屋は近年まで営業していたそうで、柳田國男が遠野を訪ねた当時は健在だったものと思われます。
忍峠への道
「高処より展望すれば早瀬正に熟し晩稲は花盛にて・・・・」
忍峠へ登り始める行程の途中から遠野の町方面をみての感想としている。
農業関係に精通していた柳田らしい言葉とも受け取られている。
忍峠頂上
「附馬牛の谷に越ゆれば早池峰の山は深く霞み山の形は菅笠の如く片仮名のへの字似たり。」
忍峠の頂上は切り通しになっており、また木々が生い茂って早池峰山は視認できない。
当時、木々は無く見通せたのでは・・・との解釈もありますが、峠下部では天ヶ森からの峰が立ちはだかり、その奥の山並も見えないのではないのかと今回訪ねて確認しております。
おそらく解説にもあるとおり、峠道をだいぶ下り安居台間近の道すがらに見た光景かもしれません。
安居台から荒屋に抜ける道すがらではより間近に早池峰を見ることができます。
下り
夏草が生い茂り過酷な道となっている・・・といっても車が普段通るような道ではありませんがね・・・汗
2009、4月撮影・・荒屋から・・・早池峰山は「へ」の字には見えませんので、もう少し駒木寄りか文中にある通り忍峠を下った辺りから見たものと思われます。
峠を下り附馬牛に入って安居台、荒屋と通り、そのまま天神の山(菅原神社)へと案内されたとばかり思ってましたが、荒屋から猿ヶ石川を越えて火渡、根岸、上柳に至り村役場を訪ねているという。
ここでは役場の末崎子太郎氏を紹介され、さらに附馬小校長の福田恵次郎氏も呼び出されて柳田と対面している。
二人より村の歴史などの説明を受け、東禅寺跡を訪ねたと考察されている。
天神の山へは東禅寺跡から帰途に付く道すがらで、大萩、宿、石羽根、菅原神社とのルートと推測され、菅原神社例大祭で、しし踊り等の祭りをみたのであろう。
菅原神社(天神さま)
「盂蘭盆に新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚げて魂を招く風あり。峠の馬上に於て東西を視点するに此旗十数ヶ所あり。」
安居台から忍峠に入って直辺りで小田沢集落を見てのことか?と解釈されているが、東西となれば西は天ヶ森の峰々で住家は存在しないと思われ、また小田沢集落は見えても灯篭木は見えたのだろうか?
小田沢、駒木方面
忍峠を越え・・・
「遠野郷に八ヵ所の観音堂あり。」
松崎観音前を通り過ぎて案内者に説明でも受けたのだろう、しかし遠野では七観音であり、柳田の聞き間違いか?勘違いか?大出の妙泉寺も入れての数か?
「道ちがへの叢の中には雨風祭の藁人形あり。」
道の分岐ということで、宮代と光興寺との分れ道辺りか?
ということで少しそのルート等に疑問点もありましたし、忍峠を越えてのルートは最短ルートでもり、また茶店が営まれていたりと主要道の位置付けであったとも認識はしておりますが、早池峰の姿が確認できるルートで、しかも石塔や石碑はその地域、集落の通い道路や主要道路沿いにある例が多いので、別ルートで附馬牛へと向かったのでは・・・そんな僅かな思いもあってこの度、遅ればせながら調べてみたところでした。
当初は・・・松崎から矢崎、そして猿ヶ石川沿いの山道を通って安居台へ至ったのも考えられるかな・・・なんて思ってましたが、どうやら忍峠で理解しても良いと思ってます。
いずれ、忍峠越え、数年前もマイカーで今時期の走破をしておりますが、「いだますぐね」と思われる方はどうぞ走破してみてください。
生い茂る木々、草゛周囲は何も見えません・・・笑
あっ・・やはりあまりおすすめできる道ではありませんので、事故等も考慮して止めておいた方が賢明かと思います。
参考図書・・・「柳田國男遠野紀行・注釈遠野物語(遠野常民大学)」「遠野物語の誕生・遠野物語と北の文化(遠野物語研究所)」
柳田國男が遠野を訪れ、その印象は遠野物語序文に記されているが、その中のひとつ、天神の山への道・・・考察されるルートに少しだけ疑問点があったものですから、今回、その道すがらを少し訪ね、また関係書籍等も概略ではありますが今一度目を通しましたので、これらの考察も交えてご紹介いたします。
≪遠野物語・序文≫ 一部のみ記載
此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。
明治42年の2月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。
・・・途中略・・・
昨年8月の末自分は遠野郷に遊びたり・・・・略・・・・
※明治42年(1909)8月23日~27日まで遠野に滞在
明治42年8月25日(火)
柳田は宿泊していた高善旅館の主人より馬を借り、附馬牛方面へ向かったようでもある。
その行程は・・・
高善旅館を出て大工町→中組町(枡形址)→下川原橋(下早瀬)→明神前(加茂神社)→地の森→蓬田→町田橋(宮代橋)→宮代→松崎観音前→忍峠麓(松崎沢ノ口)・・・・
上記の内容が「柳田國男遠野紀行・遠野常民大学 著」に記されている。
松崎沢の口石碑群
「路傍に石塔の多きこと諸国其比を知らず・・・・」
柳田の今回の行程では案内人が居たといわれ、土淵在の北川真澄氏という人物で佐々木喜善の友人とされる。
前日に土淵の山口を訪ねているが、この際に北川と会い、翌日に附馬牛方面の案内役となって、おそらく忍峠入口近く、石碑群の上方の茶屋で待ち合わせをしたのではないのか?と考察されている。
忍峠の茶店は峠中腹の清水の湧き出る辺りに、かつて2、3軒があったといわれ、大正期までは朽ち果てた廃墟が確認できたとも語られ、峠下の茶屋は近年まで営業していたそうで、柳田國男が遠野を訪ねた当時は健在だったものと思われます。
忍峠への道
「高処より展望すれば早瀬正に熟し晩稲は花盛にて・・・・」
忍峠へ登り始める行程の途中から遠野の町方面をみての感想としている。
農業関係に精通していた柳田らしい言葉とも受け取られている。
忍峠頂上
「附馬牛の谷に越ゆれば早池峰の山は深く霞み山の形は菅笠の如く片仮名のへの字似たり。」
忍峠の頂上は切り通しになっており、また木々が生い茂って早池峰山は視認できない。
当時、木々は無く見通せたのでは・・・との解釈もありますが、峠下部では天ヶ森からの峰が立ちはだかり、その奥の山並も見えないのではないのかと今回訪ねて確認しております。
おそらく解説にもあるとおり、峠道をだいぶ下り安居台間近の道すがらに見た光景かもしれません。
安居台から荒屋に抜ける道すがらではより間近に早池峰を見ることができます。
下り
夏草が生い茂り過酷な道となっている・・・といっても車が普段通るような道ではありませんがね・・・汗
2009、4月撮影・・荒屋から・・・早池峰山は「へ」の字には見えませんので、もう少し駒木寄りか文中にある通り忍峠を下った辺りから見たものと思われます。
峠を下り附馬牛に入って安居台、荒屋と通り、そのまま天神の山(菅原神社)へと案内されたとばかり思ってましたが、荒屋から猿ヶ石川を越えて火渡、根岸、上柳に至り村役場を訪ねているという。
ここでは役場の末崎子太郎氏を紹介され、さらに附馬小校長の福田恵次郎氏も呼び出されて柳田と対面している。
二人より村の歴史などの説明を受け、東禅寺跡を訪ねたと考察されている。
天神の山へは東禅寺跡から帰途に付く道すがらで、大萩、宿、石羽根、菅原神社とのルートと推測され、菅原神社例大祭で、しし踊り等の祭りをみたのであろう。
菅原神社(天神さま)
「盂蘭盆に新しき仏ある家は紅白の旗を高く揚げて魂を招く風あり。峠の馬上に於て東西を視点するに此旗十数ヶ所あり。」
安居台から忍峠に入って直辺りで小田沢集落を見てのことか?と解釈されているが、東西となれば西は天ヶ森の峰々で住家は存在しないと思われ、また小田沢集落は見えても灯篭木は見えたのだろうか?
小田沢、駒木方面
忍峠を越え・・・
「遠野郷に八ヵ所の観音堂あり。」
松崎観音前を通り過ぎて案内者に説明でも受けたのだろう、しかし遠野では七観音であり、柳田の聞き間違いか?勘違いか?大出の妙泉寺も入れての数か?
「道ちがへの叢の中には雨風祭の藁人形あり。」
道の分岐ということで、宮代と光興寺との分れ道辺りか?
ということで少しそのルート等に疑問点もありましたし、忍峠を越えてのルートは最短ルートでもり、また茶店が営まれていたりと主要道の位置付けであったとも認識はしておりますが、早池峰の姿が確認できるルートで、しかも石塔や石碑はその地域、集落の通い道路や主要道路沿いにある例が多いので、別ルートで附馬牛へと向かったのでは・・・そんな僅かな思いもあってこの度、遅ればせながら調べてみたところでした。
当初は・・・松崎から矢崎、そして猿ヶ石川沿いの山道を通って安居台へ至ったのも考えられるかな・・・なんて思ってましたが、どうやら忍峠で理解しても良いと思ってます。
いずれ、忍峠越え、数年前もマイカーで今時期の走破をしておりますが、「いだますぐね」と思われる方はどうぞ走破してみてください。
生い茂る木々、草゛周囲は何も見えません・・・笑
あっ・・やはりあまりおすすめできる道ではありませんので、事故等も考慮して止めておいた方が賢明かと思います。
参考図書・・・「柳田國男遠野紀行・注釈遠野物語(遠野常民大学)」「遠野物語の誕生・遠野物語と北の文化(遠野物語研究所)」
先を越されました!(www
先にエントリーといった内容ですかね・・・謝
でも見てみたいです・・・yamanekoさんの・・・
車やオフロードバイクだったらOKでしょうが
自転車・・ましてママチャリだと危険そうな雰囲気ですな~ぁ(w
誰かさんが次回挑戦するらすいのですがw・・
少し前、附馬牛八戸氏の根岸での町割りを偶然見たのですが、本の名前を忘れですまった
矢崎から宿へ抜ける風景は好きです。
安居台、荒屋の集落は趣がありますね。
忍峠、走破したい(w
天ヶ森の西、石羽根へ抜けるロードは
下ったんですが、このコースは躊躇し
ています。そう!あの別れで立ち止ま
っちゃう(w
この峠道といいますか山間の山道をチャリは危険ですよね。
看板に偽りなし・・・くまーが出る地帯でもありますから、止めた方がよろしいと切に希望します。
小八戸氏、すなわち附馬牛八戸家の家臣に末崎氏が見えますので、その関係かと思います。
附馬牛での何かの記念式用だったか?それに併せて地元史家の方が作られたB5版の薄い冊子があって、それに武家屋敷の配置図面が書かれていたと記憶しております。
末崎氏は阿曽沼氏の遺臣ともいわれますが、末崎姓の同級生(故人)がおりましたが、昔は武士であったと聞かされた記憶が・・・確か同級生のお兄さんは一如さんや宝飯爺さんの同級生なはず・・・小生の母方の先祖が末崎家に養子に入っており小生とは遠戚だったはずでもあります。
少しご無沙汰でした。
石羽根に降りる山道は高清水の途中から下る林道のことですよね。
忍峠は松崎~安居台間、約15分位で走破できる短い峠道ですが、草が道を覆い通行の支障になる可能性大です。
愛車が「いだますぐね」と思えばなんとか走破できます・・・笑
冬枯れの積雪のない頃がよろしいかと思います。