寛永5年(1628)、八戸から遠野へ入部間もない八戸弥六郎直義が直面した伊達家との対立、その対立構図での最大の事件、小友赤坂山金山紛争を伊達家仙台藩側からみた内容を記述いたします。
寛永5年3月18日、遠野小友の荒谷にある赤坂山に気仙の小股内膳が来て小屋三つをかけ、金を掘るというので、20日、新谷帯刀が来て追い出した。
ところが26日同山に再び小屋7つもかけたので、28日にこれを追い出した。
5月16日、内膳は今度は小屋20ばかりをかけ、有住八日町の肝入、諸親宝蔵院という山伏が同道し、さらに鉄砲50丁、槍等をもって小屋かけをした。
18日、帯刀が内膳に抗議を申し入れたが、帯刀は「この赤坂山は、前々から幾度と無く申しているとおり、遠野領内であることは明々白々であり、天下にも知られていることであるのに、何故に一度ならずも当領内に小屋をかけるのか・・」
内膳は「この山に小屋かけをするのは、自分の存意ではない、仙台奉行衆山廻、片倉半助殿の御意であり、帯刀と自分の考えで山を出るものではない、片倉半助殿の指図によるものである」
遠野方が大いに困惑し、さらに対応に当った新谷帯刀等は、一方では鉄砲50丁を居並べ、槍を携えた気仙側の態度に生きた心地がしなかったともいわれ、これを受けた遠野領主、八戸直義は、盛岡南部家、家老石井伊賀守、石亀七左衛門に書状を送り、仙台上層部が深く関与していると断じている。
新谷番所跡・・・遠野市小友町
新谷帯刀・・・本姓菊池
遠野旧主、阿曾沼広長に仕えた平清水景光(新谷禅門)の次男の出雲といわれ、遠野騒動で一躍遠野盟主となり、後に知行地召し上げ、切腹となった平清水景頼(駿河)は兄とされる。
平清水姓を捨て、荒谷を名乗っていたが、後に八戸直義の遠野入部に伴い遠野南部家に仕え、新谷番所役人となり、新谷氏は代々番所勤番を勤めた。
違い鷹羽がほとんどの遠野菊池姓にあって、菊池惣領家、嫡流家との位置付けである並び鷹羽の家紋。
遠野と住田との境、荷沢峠住田側
小股内膳・・・
旧葛西臣、小股紺野館の紺野隠岐の次男、紺野大学の長子、紺野内膳ともいわれる。
南部領との境目の金山を採掘、まさに気仙地方の金山師的な大きな役目を帯びていたらしく、仙台城下にも度々出張し、藩の上役はおろか藩主、伊達政宗にも3度、お目通りを仰せ付かったといわれる。
宝蔵院・・・
有住八日町の肝入、本姓を松田と称し、上有住恵蘇の樋ノ口館の松田大隈(千葉氏)の系譜と語られる。
松田大隈は仙台藩へ仕えたともいわれるが、伝承では、地域の開拓に力を注ぎ上有住に土着帰農したのが真相ともいわれる。
ブログ「遠野なんだり・かんだり」でも以前、触れられておりましたが、小股内膳の長女は宝蔵院の妻、二女は新谷帯刀の妻で、内膳、宝蔵院、帯刀は義親子、義兄弟の間柄でもある。
寛永5年10月2日、仙台からの境目検査吏、中条帯刀と大町飛騨が派遣され、赤坂山の境目を見たいとの申し出がされたが、この赤坂山境は、先年、遠野城代、毛馬内左衛門時代に相互に出入り禁止の緩衝地帯とされ、今後、気仙の者にも入らぬように申し付けるので、遠野の者にもそのように申し付けていただきたい・・・が仙台藩の公式回答であった。
一方、遠野では、内膳が入ったところは緩衝地帯を越えた遠野領内であり、仙台からの御使者がご覧になりたければ、当家の家老に取り次ぎ、許可あればいつでもご覧いただけるが、許可無き場合は見せることはできないとしている。
仙台側では、ただ強引に見せて欲しいの一点張り、遠野では伊達領、すなわち気仙側から見るのは構わないが、遠野領へ立ち入っての見聞は許可しないと回答している。
仙台から見聞させろ、南部からはダメだの押し問答がしばらく続き、全面対立との構図であったが、寛永18年(1641)12月3日、仙台藩、川嶋豊前が記した文書が南部側へ送達、気仙赤坂山は、陸奥守領分の者候、峰切に境目申合相立申事・・・これが最終案と示され、双方協議の上、翌19年6月17日より塚を建立し始めるも、新谷番所の源五郎と小股内膳(おそらく内膳の子)が立会い、境目が確定する。
長らく続いた赤坂山金山、境目争いであるが、結局は、幕府の裁量がものをいい、「公儀所有の金山」であり、豊臣秀吉以来の公有政策の基本を踏襲している内容でもあり、結果的には南部家において管理することで落着したのである。
気仙との境目の金山は、阿曾沼時代から気仙側から掘り進められ、当時の領主、遠野孫三郎は、伊達家に一応の抗議はすれど、かつては葛西家に誼を通じ、伊達家とも親密な関係強化を望んでいたこと、さらに孫三郎(阿曾沼広長)の妻は気仙世田米の世田米修理広久の娘ということもあって、伊達家の成すがままでもあった。
気仙から小友赤坂山にかけての大金山は、幕府の裁量が下りた頃には、気仙側によってほぼ掘り尽され、伊達の掘り儲け、南部の掘られ損の結果となったといえよう・・・・。
おまけ・・・
国道107号荷沢峠から住田方面に行き、途中から右折、種山高原へ出て、江刺人首へ・・・
途中の旧江刺市立木細工中学校
時折、映画やテレビのロケ現場にもなるとか・・・・。
どこか懐かしい校舎、いつかは廃れ崩れてしまうものと思いますが、地域の方々の思い出が詰まり、そしてよそ者の我々にもどこか懐かしさを感じさせるいい雰囲気でもあります。
人首から国道107号へ・・・・田瀬に寄り道して帰宅いたしました。
田瀬湖
寛永5年3月18日、遠野小友の荒谷にある赤坂山に気仙の小股内膳が来て小屋三つをかけ、金を掘るというので、20日、新谷帯刀が来て追い出した。
ところが26日同山に再び小屋7つもかけたので、28日にこれを追い出した。
5月16日、内膳は今度は小屋20ばかりをかけ、有住八日町の肝入、諸親宝蔵院という山伏が同道し、さらに鉄砲50丁、槍等をもって小屋かけをした。
18日、帯刀が内膳に抗議を申し入れたが、帯刀は「この赤坂山は、前々から幾度と無く申しているとおり、遠野領内であることは明々白々であり、天下にも知られていることであるのに、何故に一度ならずも当領内に小屋をかけるのか・・」
内膳は「この山に小屋かけをするのは、自分の存意ではない、仙台奉行衆山廻、片倉半助殿の御意であり、帯刀と自分の考えで山を出るものではない、片倉半助殿の指図によるものである」
遠野方が大いに困惑し、さらに対応に当った新谷帯刀等は、一方では鉄砲50丁を居並べ、槍を携えた気仙側の態度に生きた心地がしなかったともいわれ、これを受けた遠野領主、八戸直義は、盛岡南部家、家老石井伊賀守、石亀七左衛門に書状を送り、仙台上層部が深く関与していると断じている。
新谷番所跡・・・遠野市小友町
新谷帯刀・・・本姓菊池
遠野旧主、阿曾沼広長に仕えた平清水景光(新谷禅門)の次男の出雲といわれ、遠野騒動で一躍遠野盟主となり、後に知行地召し上げ、切腹となった平清水景頼(駿河)は兄とされる。
平清水姓を捨て、荒谷を名乗っていたが、後に八戸直義の遠野入部に伴い遠野南部家に仕え、新谷番所役人となり、新谷氏は代々番所勤番を勤めた。
違い鷹羽がほとんどの遠野菊池姓にあって、菊池惣領家、嫡流家との位置付けである並び鷹羽の家紋。
遠野と住田との境、荷沢峠住田側
小股内膳・・・
旧葛西臣、小股紺野館の紺野隠岐の次男、紺野大学の長子、紺野内膳ともいわれる。
南部領との境目の金山を採掘、まさに気仙地方の金山師的な大きな役目を帯びていたらしく、仙台城下にも度々出張し、藩の上役はおろか藩主、伊達政宗にも3度、お目通りを仰せ付かったといわれる。
宝蔵院・・・
有住八日町の肝入、本姓を松田と称し、上有住恵蘇の樋ノ口館の松田大隈(千葉氏)の系譜と語られる。
松田大隈は仙台藩へ仕えたともいわれるが、伝承では、地域の開拓に力を注ぎ上有住に土着帰農したのが真相ともいわれる。
ブログ「遠野なんだり・かんだり」でも以前、触れられておりましたが、小股内膳の長女は宝蔵院の妻、二女は新谷帯刀の妻で、内膳、宝蔵院、帯刀は義親子、義兄弟の間柄でもある。
寛永5年10月2日、仙台からの境目検査吏、中条帯刀と大町飛騨が派遣され、赤坂山の境目を見たいとの申し出がされたが、この赤坂山境は、先年、遠野城代、毛馬内左衛門時代に相互に出入り禁止の緩衝地帯とされ、今後、気仙の者にも入らぬように申し付けるので、遠野の者にもそのように申し付けていただきたい・・・が仙台藩の公式回答であった。
一方、遠野では、内膳が入ったところは緩衝地帯を越えた遠野領内であり、仙台からの御使者がご覧になりたければ、当家の家老に取り次ぎ、許可あればいつでもご覧いただけるが、許可無き場合は見せることはできないとしている。
仙台側では、ただ強引に見せて欲しいの一点張り、遠野では伊達領、すなわち気仙側から見るのは構わないが、遠野領へ立ち入っての見聞は許可しないと回答している。
仙台から見聞させろ、南部からはダメだの押し問答がしばらく続き、全面対立との構図であったが、寛永18年(1641)12月3日、仙台藩、川嶋豊前が記した文書が南部側へ送達、気仙赤坂山は、陸奥守領分の者候、峰切に境目申合相立申事・・・これが最終案と示され、双方協議の上、翌19年6月17日より塚を建立し始めるも、新谷番所の源五郎と小股内膳(おそらく内膳の子)が立会い、境目が確定する。
長らく続いた赤坂山金山、境目争いであるが、結局は、幕府の裁量がものをいい、「公儀所有の金山」であり、豊臣秀吉以来の公有政策の基本を踏襲している内容でもあり、結果的には南部家において管理することで落着したのである。
気仙との境目の金山は、阿曾沼時代から気仙側から掘り進められ、当時の領主、遠野孫三郎は、伊達家に一応の抗議はすれど、かつては葛西家に誼を通じ、伊達家とも親密な関係強化を望んでいたこと、さらに孫三郎(阿曾沼広長)の妻は気仙世田米の世田米修理広久の娘ということもあって、伊達家の成すがままでもあった。
気仙から小友赤坂山にかけての大金山は、幕府の裁量が下りた頃には、気仙側によってほぼ掘り尽され、伊達の掘り儲け、南部の掘られ損の結果となったといえよう・・・・。
おまけ・・・
国道107号荷沢峠から住田方面に行き、途中から右折、種山高原へ出て、江刺人首へ・・・
途中の旧江刺市立木細工中学校
時折、映画やテレビのロケ現場にもなるとか・・・・。
どこか懐かしい校舎、いつかは廃れ崩れてしまうものと思いますが、地域の方々の思い出が詰まり、そしてよそ者の我々にもどこか懐かしさを感じさせるいい雰囲気でもあります。
人首から国道107号へ・・・・田瀬に寄り道して帰宅いたしました。
田瀬湖
木細工中学校だ!
相変わらず良い雰囲気です。先般の訪問時に朝方通りました。いつまでも残って欲しい風景です。
書き込み時間を見ますと深夜・・・ご苦労様です。
新谷帯刀や小股内膳の不審死は、よくはわかりませんが、内膳と帯刀、義親子の間で双方が仕える主家をめぐっての葛藤があったものと推察しております。
伊達家では、この境目金山採掘事業は、伊達家当主の内諾のもと、藩直轄の事業内容であることが読み取れますが、南部との外交上、内膳とその配下が勝ってにしたことに表向きはされているようです。
江刺境もまた格別な雰囲気がございますよね、木細工中学校の先に、古歌葉というなんとも雅といいますか、隠れ里的なところもございますしね。
古歌葉のあたりの風景もそうですが、江刺の奥の牧歌的な風景はどこか切ないほどの懐かしさを感じたのを覚えています。
かの地の歴史にはまったくの門外漢ですが、藩境ならではのさまざまな思惑・曲折があったのですね。
以前どこかで、藩境を決めるために、同日同時間にそれぞれが出発、双方が出会った場所を境にしようという約束が伊達側に反古にされ、一日早く出発するというあこぎな所業に出た伊達側に南部はまんまと領地をもっていかれた…なんて話を聞いたことがあります(汗)
伊達の小ずるさを揶揄した物語なんでしょうが、耳が痛い思いです…
狩猟のために、生活の為の刃物がやがて領地争いの武器に代わり、平穏な時代になって正しく価値の高い「銭」の元の金銀銅へ・・・・
オイルが世界の経済を近年は引っ張っていますが、その根底には鉱物による底辺世界が今も続いてますよね。
勝ちあるものの奪い合いは何時の世も耐えないようですね。
いい、地元の歴史を勉強させていただきました。
ここを通るたびに思い出せればよいのですが(๑→‿ฺ←๑)
期せずして、笛吹さんがUPした頃に伊達藩のことについて聞かれ、私は母親から聞いていたことを伝えました。内容はここには書けません(悪口になってしまつから)が、その人はすぐ後に伊達の人と話をする機会があり、すっかり同じ内容を聞いてきました。自分たちが南部藩からどのように思われているか全部知っていたそうです。高校の遠征のとき、その昔伊達藩から焼き討ちにあった集落の子孫の方に「まだ、火つけさ来たのが」と罵られたそうです。高校生でそんな言葉を浴びせられかなりへこんだそうです。
今は、私たちがこの怨親を越えて手を携える時代だと思います。だから、みんなと出会えたのでしょう。
伊達のお殿様は馬で、南部の殿様は何を勘違いしたのか牛車で・・・・のんびりとした南部という印象があると思います。
数年前に岩手県立博物館で開催の「伊達と南部」展では、甲冑ひとつとっても南部家は金箔を施して豪華絢爛、伊達家は実用的でシンプル、伊達者といわれ派手好きの伊達というイメージが少し崩れた印象がございます。
歴史は繰り返される、といいますか、全く反省も懲りずに世界各地で争いが耐えない人間社会ですね。
モノが豊かでなかった時代を考えれば、領内侵犯は死活問題でもあると思いますが、武士の面目やら意地もぶつかる難しい時代背景もあったものと思います。思いたいです。
今の時代ながらもナンセンスといいたいですが、まだまだこういった内容はどこかで燻っているものと思います。
津軽と南部というのもございますし、伊達と南部のいさかい等・・・後日、第2弾としてエントリーしたいと思います。