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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

行商

2006-12-16 17:50:15 | 遠野
 今はほとんどみられなくなった行商、私の少年時代は、沿岸方面から背負った篭に満載の海産物を売りにくるバアサン達がバスから降りてくる、そしてそれぞれお得意の集落、御宅へと向かい、午後早くには遠野の町行きのバスに乗って遠野駅に向かう、そんな光景がありました。

 無論、我家にも馴染みのオバサンがやって来ては、縁側に主な魚介類を並べる、家ではほぼ毎日、買っておりましたし、隣近所からも買いにやって来る、私が中学生、高校生になると行商のオバサン達の数はめっきり減りましたが、代わって移動販売車がやって来る、それでもかつて行商をされていたオバサンの家族ということで、車のスピーカーから演歌が流れると皆、買物カゴ持参で買いに出ていた光景も思い出されます。


宮守町にて・・・

 ホウキの行商

 宮守町粡町で見かけたご年配の男性・・・・
 訪問販売といえば聞こえが悪いという印象が私はしますが、行商となれば、どこか懐かしいといいますか、ほのぼのした感じがいたします。

 宮守勤務時代、国道に隣接する職場でしたので、お花屋さん、パン屋さん、印象に残っているのは江刺からやって来たという南蛮売りのジイさん、一味、七味の唐辛子を扱い、これが辛いのなんの、またいい味を出していたことを思い出します。

 今はなかなかお目にかかることは稀ですが、ほうき売りのジイさんを見かけて懐かしく思いました。


 おまけ・・・

 花巻の某ホームセンターペットコーナーにて



 家のネネの小さい頃ではありません。
 お値段は十数万円の高級猫さん、ガラスに顔を押し当てた姿で熟睡しておりました。
 ペットセンターの犬、猫さんはいつも寝ています・・・というか私が見たときはいつもそうでした。


おまけ2
先月末、今月と探訪した程洞館をアップいたしました。
こちら

 
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石倉館(上宮守)と宮守主水

2006-12-14 15:53:42 | 歴史・民俗
 同級生であり、また遠野の歴史、民俗分野でご活躍の笛吹童子さん(ブログなんだり・かんだり)がエントリーいたしました、上宮守の戸草地区の八幡様関連にて、八幡神社縁で上宮守のご出身である「遠野旅情・甲斐の国」さんからの情報で、この八幡様の隣接山野は館と呼ばれた、城舘跡が眠っているというご指摘で、前回、探訪を試みましたが空振り、今回、リベンジを果たすべく意気込みで探訪して参りました。

石倉館跡のある山野・・・遠野市宮守町上宮守・戸草地区

 館跡は杉林及び雑木林の山野全体にわたっております。

 午前9時前、自宅を出発、八幡神社前に車を停めて、西側の牧草地側から突入、高さ5メートル前後の斜面を登りきると、きちんと道らしいものがついてある。

 しかも雑木林と杉林との間は浅い谷状となっており、程なくして左右の峰には段状の形状が確認できました。

 さらにその中央にはフェンス、階段があってガス施設跡といいますか、建物も確認、看板らしい板にはガスなんとかと書かれており、ガスの関連施設があったようです。

 ということですが、率直な感想・・・今年の城館跡探訪で青笹町の花館の次くらい驚愕した館跡でもありました。

段状の形状(帯郭)・・・ガス施設跡付近


北西側の帯郭


 石倉館の概要

 まずは登り始めてから早期のうちに北西側の雑木林、南東側の杉林には段状の形状が確認でき、双方の上方には比較的大きな平場が展開されている。
 この時点でガス施設跡地が主郭とみて終わりなのですが、どうもさらに上部の山野にも帯郭らしい形状があり、さらに上部、奥へと進むと、南北60m、東西10~20mのかなり広い平場があり、2段~3段の帯郭が周りを囲んでいる。

 背部の空堀跡

 遠野でも大きい部類に入ると思われ、幅8mに及ぶ・・・。

 背部には空掘跡有、2重堀と思われますが、鱒沢館跡の空掘を彷彿させる大きさを誇り、2重目はおそらく空掘だと思われますが、上部で道跡のような形状となっており、空掘跡を林道として使用したものか、いずれ2重堀であろう・・。


 自然の形状をさらに人的に加工した形跡もみられますが、遠野の城舘跡では比較的大きい方でもあり、防御性も優れていると判断できます。

 空掘はともかく、階段状に展開された帯郭は北側以外全ての方角に展開され、みるべきものがよく残されている館跡でもありました。

 館跡南東側にある八幡神社

 なお、石倉館としておりますが地元では館(たて)と呼んでいるそうです。
 岩手県内の城舘跡をほぼ網羅する日本城郭体系2には主な城舘として掲載はされていないが、一覧の中で石倉館として掲載されております。

 おそらく書籍の著者が遠野、宮守を調査した際に、地元へ照会してその他の城舘跡の一覧として資料をいただいたものと思われますが、近くの地名からくる石倉をそのまま館名としたものと思われます・・・(屋号に石倉有り)


 はっきりいいますとこの地域での主要な館である宮守館(別名・小沢館、熊の洞館)と同規模か、或いは若干大きい印象がいたしました。
 館主は伝えられていないが、宮守氏に何かしら関連ありそうな感じは否めません。
 宮守氏の一族が居たものか、それとも神成館から小沢の宮守館に主館を移す以前にこの石倉館を築き、後の時代に宮守館へ移ったのか・・・・こちらは本編サイトにて考察を加えたいと思います。


 最後にひとつ・・・

 慶長5年の遠野の政変にて、宮守館の宮守主水は遠野方の上野広吉に攻められ、宮守館は落城、宮守一族は各地に四散したと宮守館麓の説明板には記されているが、宮守主水は南部利直より宮守の旧領に5百石を拝領され、宮守代官の要職にあった、後に改易となったが、子孫は再び南部家に登用され南部藩士となっている。

 慶長の遠野政変で鱒沢氏や上野氏へ加担したからこそ、宮守氏は南部家より所領を安堵されたものと考えるべきであろう・・・。

 この中で、ひょっとすると宮守氏は二つの系統があって石倉館の宮守氏、宮守館の宮守氏・・・宮守館の宮守氏は謀反に加担せず遠野方に攻められ没落、一方石倉館の宮守氏は謀反側となり、その恩賞として新たに宮守の領主となったものか・・・こちらも後日、本編サイトにて・・・・。

(上宮守の善勝寺の草創に宮守主水が関わっている)


 おまけ・・・・

 宮守町(旧宮守村)は遠野と歴史的つながりが深く、共有している事柄が多いと人はいう・・・まさしくその通りかもしれませんが、阿曽沼時代はともかく江戸時代に関しては、遠野南部領は上宮守と一部下宮守、上下鱒沢で達曽部、下宮守は盛岡南部の直轄地であったのです。

 宮守地域が一貫して遠野の領域だったとは本来はいえない史実もあったのです。


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住宅火災警報器Ⅱ

2006-12-13 13:32:11 | ファイヤー
 既存の住宅の場合、平成21年5月31日までに住宅火災警報器を設置しなければなりません。
 いわば法的に義務化されたものですが、金銭面での個人負担が伴うものですが、是非に安心、安全を買う、このことをご理解のうえ、早めの設置をした方がよいと考えます。

 我家でも3個を設置済みです。

階段天井に設置





1階母親の寝室



 遠野市では煙感知器を推奨しているようですが、我家も煙感知器といたしました。
 値段等も勘案しまして単三電池4本使用で5年間交換なしのものとしましたがメーカー、種類は豊富です。
 
 寝室の数がその個数となりますが、2階建ての場合は2階に寝室がある場合は、その寝室プラス階段の天井にも設置が必要です。

 詳しくは・・・・
遠野市消防本部 ←こちら

 
 昨年の今時期にも今回の内容をエントリーしましたが、画像を消してしまうミスをしましたので、今回、再度エントリーいたしました。

 いずれにしろ、まだ新築以外は猶予期間でもありますが、早めの設置を心がけた方が良いと思います。
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続・マルカン大食堂

2006-12-11 17:13:29 | その他
 少し寒いものの、青空も広がり絶好の城舘跡めぐり日和ながら、山ノ神さんも休みということで、探訪は休止にして北上、花巻方面へ野暮用で出かけて来ました。

 北上での用足後、昼飯は何処で・・・・そんな話しをしながら車は花巻市内へ・・・。



 おっ、マルカンデパート・・・。

 ほだっ、久しぶりに大食堂にでも行ってみっか・・・ということで・・・。



 正午間もなく、店内へ入ると1階のエレベーター前は20人前後の列・・・皆、6階大食堂行きらしい・・・。

6階大食堂

 ほぼ満席状態、凄い人気店、派手さはないけど、ここまで混み合っている食堂はざらにない、しかし、よく目を凝らせば、ちょくちょく席は空いている。

名物特大ソフトクリームが140円・・・普通サイズでも250円はしますが、ここのは名物にも関わらずこの安さ・・・。


マルカンラーメン

 私は辛味の効いた五目あんかけラーメン風のマルカンラーメンをいただきました。
 此処の昔ながらの中華そばが一押しですが、麺類は種類も豊富で安いです。

ナポリカツ

 山ノ神さんはナポリカツ、昔懐かしいナポリタン


 そして食後は・・・




 名物特大ソフト、割箸でいただく有名ソフト・・・・甘さ控えめで美味しかったですが、中年オヤジ的には絵にならない光景だったかもしれません・・・汗

 
 さて、前回のマルカン大食堂のエントリーでは、幼い頃の記憶が蘇る懐かしい風景が残っているという印象でしたが、もちろん今回も同様ながら、少しだけ違う・・・ウエイトレスさんが20歳前後の若い方々が主流となっている。

 ベテランの皆さんは白衣にエプロン、若い方はウエイトレス姿・・・ちょっとだけ雰囲気が変わってましたが、客層の顔ぶれは昔と同じ、前回と同じ、懐かしい雰囲気と共に混みあってはいてもどこか落ち着いて食事ができる、そんな思いが今回もいたしました。



 厨房もフロアも大車輪の忙しさ、これぞマルカンデパート6階大食堂です。

 ただし、難点といえば駐車場、ワンボックスとか大き目の乗用車の場合は2階の駐車場へ上げられますが、スペースが狭く難儀いたします。
 
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下村今昔

2006-12-10 18:39:21 | 遠野
 薄っすらと雪化粧、日中は青空ものぞいたが時折白いものもチラつく、こんなあやふやな天候では恒例の城舘跡めぐりの気もおきない、明番ということもあって寝て曜日(日曜日)を決め込むも、それでもなんかもったいない気もして、本編サイトの更新を行い、アップいたしました。


 さて、下村(したむら)とは私の住む松崎町駒木の下駒木集落の一部を指す呼称でがんす。
 私の住む辺りは通称「あすじゃ」(あしざわ)といいまして、下駒木のひとつの班を構成している地域、「あすじゃ」からみれば下のということで下村と呼び、こちらも同集落のもうひとつの班を構成している地域でがんすちゃ・・。

下掘合(したほれ)界隈


 その昔、阿曽沼一族が遠野に来た際に最初に仮屋敷を置いたところで、この界隈のお宅の先祖は新領主に貢献、後に堀が落ち合う場所に家があったため屋号堀合とし、その下方に分家を出したとのことで分家は下堀合という・・・。

 といっても、現在の下堀合の家々は堀合の上方にあって、阿曽沼仮屋敷があったとされる場所に家がある。

 私の子供の頃とはほとんど雰囲気は変わりませんが、画像左に堆肥が積まれておりますが、以前は一段低い場所で水田、脇には水を溜めた竪穴みたいなものがあって、冬は氷が張って、幼馴染達と氷割をいたしやした。

大沢川


 仮屋敷があった頃は天然の堀の役目があったとか、私の子供の頃は自然の流れで、この界隈で一番変わった風景かもしれません。
 川はコンクリートで固められてしまいました。


旧警察官駐在所・教員住宅

個人の御宅でもありますから、画像に加工しております。

 私が小学校高学年の頃までは駐在所があり、警察官1名が居りました。
 家族で赴任といったことではなく、単身赴任者が主だったようですが、週末に家族がやって来て、私と同年代の娘さんが時折来ては、遊んだ記憶がございますが、名前も顔も忘れてしまった・・・・汗

 また画像の建物はかつては教員住宅で、駒木小学校関係者が住まいしておりました。
 
 赤い屋根の建物の道路沿いには木造の大きな火の見櫓がありましたが、いつ頃まであったかは記憶がございません。


 おまけ・・・

 大根城の師走


 流石大根城、漬物用の大根があります。




 絵も大根です・・・笑・・・ついでに家紋も手書きというのがいい感じ・・・笑
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ジェストモたで(館)

2006-12-08 16:30:33 | 歴史・民俗
 遠野の城舘跡探訪が出来るシーズンもあと僅か、初冬の予定探訪数8箇所に対して6箇所程、そのうち2箇所はその全容の解明に至らず、しかも今季は標高はともかく比高の低い場所を多く予定しているも、歳と共に体力も落ちていくだろうに、比高の高い難易度の高そうな館跡は後回し、来春以降はさらに難儀しそうな予感でもあります。

 そんな中、上郷町の大寺館をまずは探訪してきました。

大寺館の全景

 比高30m、遠野では低い部類に入る山城跡でもあり、平倉観音堂の東側山野に位置しており、西側は刃金館(探訪済)。
 
 館主は本姓を菊池と称する切掛蔵人、上郷の館主に本姓を菊池姓と伝えられる武家は結構散見される。

 さて、平倉観音前に車を停めて、東側山野に突入、林道を進み途中の斜面から頂部を目指したが、斜面もゆるく楽勝かに見えましたが、平らな場所に至ると、辺り一面の笹薮、しかも背丈ほど・・・そんな中、2重の空掘を発見、しかし堀全体が笹竹だらけ・・・・。


 しかも主郭と思しき平場も南側斜面も全部笹薮、段状の形状も何も確認できない、さらに移動もままならず、笹薮を泳いでいるかのよう・・・身体がもたない、足はとられる、疲労が増す・・・これでは調査にもならずあえなく撤退となりました。

熊野神社


 舘山から下りると草地等があるさらに東側を探訪、熊野神社を発見。
 「昭和9年林崎手踊り社中」・・社中?連中・・?と書かれていた。
 それと辺り一帯は「ながね」と言うらしく、「ながね」と書かれた標柱を確認・・・同名の某歯科開業医がございますが、下のお宅はご実家らしい・・ながねは屋号か?。


 
 さらに午後は・・・・
 「遠野なんだりかんだり」にエントリーされていた上宮守戸草の八幡様、その関連で以前接触のあった上宮守のご出身で現在山梨県にお住まいの「遠野旅情」さんがコメントを入れておられますが、その中で、隣接の山は館と呼ばれ、堀切などの遺溝があるとのこと、これは早速調べてみようということで、急遽、探訪箇所に追加・・・・いざ上宮守へ・・・・

 空掘跡か




 何を勘違いしたか、笛吹童子さんのエントリーを良く見ていない為か、大上集落に入ると思いますが、旧道上に神社を発見、戸草のバス停手前の大型サイロのある辺りの山野に突入・・・ほど無くして峰を断ち切る堀を発見、「ここだっ」我ながら勘が冴えているなんて自画自賛、遠野郷内でもかなり大きな堀と思い込んで、その堀底を上部に向かって歩き始める・・・登りもきつかったが、堀の大きさもなかなか衰えない、急カーブがやたらと多い、かなり上部まで辿って行ったが、なかなか終わりがないっ・・・やがてこれは堀ではなく、道ではないかと脳裏を掠める・・・。

 その思いは的中、道が途切れている・・・空掘ではない・・・一気に疲れが襲う・・汗も掻いた・・・そういえば神社には井戸跡やら石垣みたいなものがあったな・・・と思い出す・・・涙

 車に戻って少し行くと、遠目に鳥居と石垣、さらに赤い屋根の神社が・・・・流石に神社までは行ったがその隣接の山野には分け入る体力といいますか脚力は残されていませんでした。



 舘跡とされる山野はA~Cのいずれの山野ですかね、ご存知の方、ご教授願います。(遠野旅情さん)

 一応、石倉館というようです。確かに社の回りは大石だらけ、ついでに勘違いして登った山野ももの凄い石だらけの山でした。

 いずれ、リベンジはいたします。

 ジェストモ、館だけは見ておきたいと思います。


おまけ・・・

 館めぐりで青笹、上郷方面に行ったらお昼は此処と最近は決めております。
 今回も質、量とも充実の「ミニ天丼ざる蕎麦セット」をいただきました。



 ジェストモあべ・・にて
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冬・黄昏物語

2006-12-06 16:49:49 | 遠野
 城舘めぐりには絶好な日和、ラストチャンスを狙うも午前中は家事用務、午後はなんだかんだしているうちに2時を回る。
 
 2時も過ぎますと陽も傾きかけ、本日の城舘探訪は諦め、駒木、小田沢、安居台界隈を車で走っていると・・・・。

は、は、ハクチョ~ン大魔王・・・・寒

 附馬牛町安居台の猿ヶ石川・・・白鳥さんが30羽程



 しばらく白鳥さんを眺めたり写真を撮ったり、たまに石を投げたり・・・嘘です・・・汗

 小1時間ほどしてから帰途に着きますと、西の空がオレンジ色に・・・・



 こんな時は東の山々が赤く染まりますが・・・・

六角牛山と八幡館


早池峰山





 日暮れが早いですが、つい先ほどまでの空は・・・

小田沢の空


先月中頃から再開しております遠野の城舘跡めぐり・・・
角城館土淵町

本宿館土淵町
を追加しております。(本編サイト遠野松崎じぇんご弐)



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五日市館

2006-12-05 16:55:24 | 歴史・民俗
 明番ながら、午後からは雪か雨が降るかも・・・と思い、少し肌寒い中ではありましたが、午前中勝負ということで、土淵町内の城舘跡、五日市館を探訪いたしました。

五日市館・・・土淵町五日市


 11時過ぎ、空には青空も見えている、城舘跡を示す資料には五日市の愛宕神社がある山が五日市館とあり、早速、愛宕神社入口の歩道脇の草地に車を停めて登城開始・・・。

 鳥居をくぐると、ほぼ頂上に向かって真っ直ぐ参道が延びている、しかもかなりの急勾配、遠くからみる城山はそれほど高く険しい山には見えないが、実際は結構急な登り・・・・・。

天ヶ森

 登って3分1程度の処から・・・・。


 かなりきつい、しかも九十九折ではなく、真っ直ぐな参道、これには参った。

 そういえば先月末開催の「遠野ぶれんど」の集いでの高柳先生の講話の中で、ウンナンさんと共に愛宕さんの話しがありましたが、大概は三角形の山の頂上に勧進され、参道は祠までほぼ真っ直ぐとありましたが、苦しい息づかいの中、なるほどと納得、そういえば我家も愛宕さんを氏神としておりますが、別当を務めるお堂への以前の参道は下からほぼ真っ直ぐでありました。

 と苦し紛れに色々とあれこれ考えて登っているうちに頂上が見えてきました。
 それと共に階段状の工作されたであろう館の特徴を現す地形が見えはじめ、まず間違いなく此処が五日市館であると確信いたしました。

頂上平場(主郭)に鎮座する愛宕社


 主郭の平場は南北約50メートル、東西12~16メートル、若干の段差は南部分に確認されますが、遠野の館としては割と広い部類に入ります。

 主郭背面(南)の帯郭(3段)

 資料の記述通り、空堀跡は確認できなかったが、主郭を取り巻く3段の帯郭、北側に展開するさらに2段の帯郭共にその残存度は高めでもあり、帯郭と思われる形状は実は空堀らしき形跡もあり、土砂等が堆積したものなのかもしれません。

 東側の急傾斜地下部には文珠様、いわゆる倭文(ひどり)神社が鎮座し、西方面になだらかに続く峰は八幡山方向へ続いている。

 館主は五日市氏、倭文神社の説明板には橘氏が館主との記述、別説では阿曽沼氏と同じ木瓜紋を家紋とする五日市氏有り、本編サイトへのアップ時に考察を加えたい思います。


 愛宕神社は舘跡に建立されたものであろうと思いますが、こうして祠や社があるということで、館跡の痕跡を残す山野が保全され、人々の目に触れられることで、長らく後世まで残されるものと考えております。


 おまけ

白髪のパンチパーマ・・・六角牛さん



7万アクセス
 
 本家サイトであるHP「遠野松崎じぇんご弐」が昨夜か今朝に70,000アクセスとなりました。
苦節5年半・・・笑・・・遠野の一地域のこと、郷土史、民俗的な内容を扱うマイナー路線ではありますし、昨今のブログ人気に押され気味の中、なんとか7万の数字、ありがとうございます。

 しばらくこの路線にて頑張って続けていけたらと思っております。
 今後共どうぞよろしくお願いします。

 なお、切番プレゼント等は今回は考えておりませんが、77777の際に何か考えたいと思います
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来内館と伊豆権現

2006-12-03 18:17:25 | 歴史・民俗
 八戸在住の湊丸氏をご案内しての遠野城舘跡探訪、冬の陣2006も二日目、最終日となりますが、午前中勝負の2箇所限定として、実施いたしました。

 小雪混じりの冷風が肌を突き刺す中、最初に土淵町の本宿館を探訪、今回の舘跡探訪では天候もさることながら、良好な遺溝等の発見もままならず・・・といった雰囲気、2日間で6箇所は探訪したいと考えていたが、4箇所に止まりました。

 本格的な降雪時期までの短い間にあと何箇所攻略できるかはわかりませんが、なんとか少なくても3箇所は探訪したい、そんな思いだけが先走っている現状です。


本宿館から常堅寺(かっぱ淵)方面を望む・・・・さみ~~(鼻水)



 さて、本日のお題・・・「来内館と伊豆権現」

 来内館(上郷町)の探訪は早期に実現させたいと以前から考えていたことですが、比高も40mと低く、なだらか、空掘有と資料に記述されていたので、割と簡単に探訪できると思っておりました。

 リンクいただいている「遠野なんだり、かんだり」(管理人・笛吹童子さん)で伊豆権現の創始に関わる内容をエントリーしておりますが、私も不勉強ながら興味があってコメントをしたりしております。

 そん中での来内館の探訪、私としては来内館の探訪と共に伊豆権現創始に関わる何かを城跡探訪という郷土史分野からの糸口として切り崩したい、そんな目論見も事実ありました。

伊豆権現


 事前の館跡の位置調べでは、来内館は伊豆権現社のある山野と同じという情報を入手、これは舘跡の一部に伊豆権現社を勧進したに違いない、舘跡に鎮座する社の多くは、館が廃れた後にその場所に建立といったことが多く、もしや伊豆権現は来内館の機能が停廃した後のものか、それとも別場所から移されたものか、このことへのこだわりも見え隠れする気持ちでもありました。

 大同年間とされるその創始、1千2百年の時の流れ、舘跡ひとつの探訪でこの悠久の時の流れが微塵にも砕け散る、なんという妄想と思いながらまずは伊豆権現へ・・・館跡と思われる段状の地形、これはまさしく・・・と思うも、他に目立った遺溝等はなし、社殿背部の山野も探索、こちらも何もない・・・これは空振りか・・・いやっ、住所的には此処だっ・・・ということでお隣のお宅のご年配の女性に訪ねる、「おひらやま」「ひらやまさん」とそのご年配の女性は言う、さらに八戸から南部さんが来た後に私達はここ来内に来た一族だけど、舘跡は「おひらやま」と呼んでいる・・・親切に教えてくれました。

 それにしてもその後も地域の歴史のことなども若干講釈していただきましたが、かなり詳しい・・・恐れ入りました。 

 その中での「おひらやま」とは「お城山」と解釈、「ひらやまさん」は「平山姓」の館主でもいたのかと思いましたが、どうやら「おひらやま」と「ひらやまさん」は同意語で、お城山に敬意を込めた言い方が「ひらやまさん」だと私は認識しましたが、その方への突っ込みはできずに勝手に判断いたしました。違うかもしれませんが・・・・。

 とにかく場所を教えられ突入、笹薮を漕ぎ、なだらかどころではない、たいへんな思いをして、とある場所に到達、空掘らしい遺溝を発見、他に帯郭らしい段状の形状も確認、少し物足りない雰囲気はありましたが、まずは舘跡は此処で間違いなそうです。

来内館


 伊豆権現社のある山野と尾根で繋がってはいるが、距離にして200メートルは離れている。
 さらに教えられた山野は〆田方面への道路側が正面のような雰囲気でしたが、実際はその山野の背後(西側)で、正面は奥まってはいるが蕨峠への道側で、気仙からの要衝といった雰囲気は十分に感じ取れました。

 ただ、少し距離はあるものの、伊豆権現は来内館の館神といった感覚も未だ消えず、館或いは地域の鎮守的な何かあったものなのか、単に早池峰山との関わりだけではなく、地域に根ざした歴史、民俗的な何かがあるのは確かなことだろうと思いますし、館はその地域の防備の要、地域を治める館主と社の関係、これは郷土史分野からの切り崩しもそうは簡単にはいかないな・・・と大きく反省しているところです。
(ラオウに立ち向かうも触れることさえ叶わず、その剛拳、一撃で倒された南斗五車星・風のヒューイの如く)

 1千2百年、その時の重さは素人郷土史家もどきでは手に負えないと、今回は大人しく館本来の歴史等に重点を置きたいと思います。
 いずれ、この方面からの考察、糸口を探りつつ、挑戦したいと思います。


おまけ

 湊丸さんをご案内して、夜の遠野街へ・・・。

 今回は、居酒屋2件のはしご、締めのラーメンとなりました。


昭和通りの二軒の居酒屋で軽く懇親会


遠野で一番目に付くネオンサイン


 そして、〆は親不孝の手打ちラーメン



 「つるや」の手打ちみそラーメン・・・今回はカツ丼ではありません・・・笑


 ラーメン三連発

 館めぐり初日の昼食は食肉センターの食肉ラーメン、夜の〆は、つるや・・・・翌日の解散会(昼食)は宮守の銀河亭の、ごまみそラーメン


 ごまみそラーメン・・・サラダ食べ放題がうれしい

 銀河さんがご紹介していた激辛ラーメンを食べようと思いましたが、メニューにない、辛口ラーメンのことかと判断して湊丸さんが注文しましたが、辛口党の湊丸さんには歯が立たず、胡椒、一味唐辛子をバンバン入れて食べても辛くないとのこと、恐るべし湊丸氏・・・・。

 2日間ありがとうございました。
 また来春、お願いします。
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舘跡冬の陣・壱

2006-12-02 17:13:25 | 歴史・民俗
 ここ3年程恒例となっております遠野の城館跡探訪、今年も冬の陣を開催、八戸在住の湊丸氏(旧睦月庵氏)をお迎えして一泊二日の予定で、実施しております。

うっすらと雪化粧の遠野城下・・・欠之上稲荷神社から


 まずは午前中、欠之上稲荷裏の杉山館を探訪・・・

 前回見落とした区域を探訪すると・・・なな・・ななんと大型6段にわたる段丘を発見、遠野での段丘でも大きい部類に入り、しかもここ杉山館は旧城下(現市街地)を前面にしているのではなく、浜峠方面の監視、或いはこの方面からの敵の侵入を防御する館であったことを示すものと判断いたしました。

 さらに杉山館が機能していた時代は浜峠方面に集落を抱え、この方面が栄えていたことを示すひとつの証拠となるのでは・・・とも考えます。

大型段丘


 ただし主郭となる部分は何処か、空掘は・・・まだまだ奥が深そうな館跡でもあります。


 さて次に気をよくして程洞稲荷へ・・・



 参道付近にも段丘が点在、間違いなく館跡ではあろうが、社がある中腹は段状の形状であるも、どうも館跡の雰囲気がイマイチ・・・前回の探訪で怪しいと睨んでいた隣接の山野へ進入・・・しかし頂上が見えない・・・少し進むと・・・



 段状の形状が配列されている、ほぼこちらも館跡であると断定するも頂部は遥か上、登りもきつく、しかも積雪有、眼下には鍋倉城までが見えてくる、主城よりも高い位置にある館、しかもまだまだ頂部の位置が不明・・・ここで断念と考えたが、ここまで来たら最後まで・・・・まだまだ登りは続く・・・ようやくそれらしいところに出たら林道に出た~・・・・ガクッ・・・一気に疲れが出る・・しかしさらに上に山野が・・・結局断念・・・標高450メートル、地高250メートル、比高180メートル・・・少なくても比高150メートルは登ってきたことになります・・・いい感触と思った矢先の思わぬ展開・・・午後の体力はほとんどありませんでした。

 昼食後、軽く鍋倉城の探索に切り替えるも雨模様・・・第1日目はこうして終了いたしました・・・。



おまけ

食肉センターで昼食



食肉ラーメンとジンギスカン

疲れも一気に吹っ飛びはしませんが、ある程度の力の源はいただいた気分でした。
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