同級生であり、また遠野の歴史、民俗分野でご活躍の笛吹童子さん(ブログなんだり・かんだり)がエントリーいたしました、上宮守の戸草地区の八幡様関連にて、八幡神社縁で上宮守のご出身である「遠野旅情・甲斐の国」さんからの情報で、この八幡様の隣接山野は館と呼ばれた、城舘跡が眠っているというご指摘で、前回、探訪を試みましたが空振り、今回、リベンジを果たすべく意気込みで探訪して参りました。
石倉館跡のある山野・・・遠野市宮守町上宮守・戸草地区
館跡は杉林及び雑木林の山野全体にわたっております。
午前9時前、自宅を出発、八幡神社前に車を停めて、西側の牧草地側から突入、高さ5メートル前後の斜面を登りきると、きちんと道らしいものがついてある。
しかも雑木林と杉林との間は浅い谷状となっており、程なくして左右の峰には段状の形状が確認できました。
さらにその中央にはフェンス、階段があってガス施設跡といいますか、建物も確認、看板らしい板にはガスなんとかと書かれており、ガスの関連施設があったようです。
ということですが、率直な感想・・・今年の城館跡探訪で青笹町の花館の次くらい驚愕した館跡でもありました。
段状の形状(帯郭)・・・ガス施設跡付近
北西側の帯郭
石倉館の概要
まずは登り始めてから早期のうちに北西側の雑木林、南東側の杉林には段状の形状が確認でき、双方の上方には比較的大きな平場が展開されている。
この時点でガス施設跡地が主郭とみて終わりなのですが、どうもさらに上部の山野にも帯郭らしい形状があり、さらに上部、奥へと進むと、南北60m、東西10~20mのかなり広い平場があり、2段~3段の帯郭が周りを囲んでいる。
背部の空堀跡
遠野でも大きい部類に入ると思われ、幅8mに及ぶ・・・。
背部には空掘跡有、2重堀と思われますが、鱒沢館跡の空掘を彷彿させる大きさを誇り、2重目はおそらく空掘だと思われますが、上部で道跡のような形状となっており、空掘跡を林道として使用したものか、いずれ2重堀であろう・・。
自然の形状をさらに人的に加工した形跡もみられますが、遠野の城舘跡では比較的大きい方でもあり、防御性も優れていると判断できます。
空掘はともかく、階段状に展開された帯郭は北側以外全ての方角に展開され、みるべきものがよく残されている館跡でもありました。
館跡南東側にある八幡神社
なお、石倉館としておりますが地元では館(たて)と呼んでいるそうです。
岩手県内の城舘跡をほぼ網羅する日本城郭体系2には主な城舘として掲載はされていないが、一覧の中で石倉館として掲載されております。
おそらく書籍の著者が遠野、宮守を調査した際に、地元へ照会してその他の城舘跡の一覧として資料をいただいたものと思われますが、近くの地名からくる石倉をそのまま館名としたものと思われます・・・(屋号に石倉有り)
はっきりいいますとこの地域での主要な館である宮守館(別名・小沢館、熊の洞館)と同規模か、或いは若干大きい印象がいたしました。
館主は伝えられていないが、宮守氏に何かしら関連ありそうな感じは否めません。
宮守氏の一族が居たものか、それとも神成館から小沢の宮守館に主館を移す以前にこの石倉館を築き、後の時代に宮守館へ移ったのか・・・・こちらは本編サイトにて考察を加えたいと思います。
最後にひとつ・・・
慶長5年の遠野の政変にて、宮守館の宮守主水は遠野方の上野広吉に攻められ、宮守館は落城、宮守一族は各地に四散したと宮守館麓の説明板には記されているが、宮守主水は南部利直より宮守の旧領に5百石を拝領され、宮守代官の要職にあった、後に改易となったが、子孫は再び南部家に登用され南部藩士となっている。
慶長の遠野政変で鱒沢氏や上野氏へ加担したからこそ、宮守氏は南部家より所領を安堵されたものと考えるべきであろう・・・。
この中で、ひょっとすると宮守氏は二つの系統があって石倉館の宮守氏、宮守館の宮守氏・・・宮守館の宮守氏は謀反に加担せず遠野方に攻められ没落、一方石倉館の宮守氏は謀反側となり、その恩賞として新たに宮守の領主となったものか・・・こちらも後日、本編サイトにて・・・・。
(上宮守の善勝寺の草創に宮守主水が関わっている)
おまけ・・・・
宮守町(旧宮守村)は遠野と歴史的つながりが深く、共有している事柄が多いと人はいう・・・まさしくその通りかもしれませんが、阿曽沼時代はともかく江戸時代に関しては、遠野南部領は上宮守と一部下宮守、上下鱒沢で達曽部、下宮守は盛岡南部の直轄地であったのです。
宮守地域が一貫して遠野の領域だったとは本来はいえない史実もあったのです。
石倉館跡のある山野・・・遠野市宮守町上宮守・戸草地区
館跡は杉林及び雑木林の山野全体にわたっております。
午前9時前、自宅を出発、八幡神社前に車を停めて、西側の牧草地側から突入、高さ5メートル前後の斜面を登りきると、きちんと道らしいものがついてある。
しかも雑木林と杉林との間は浅い谷状となっており、程なくして左右の峰には段状の形状が確認できました。
さらにその中央にはフェンス、階段があってガス施設跡といいますか、建物も確認、看板らしい板にはガスなんとかと書かれており、ガスの関連施設があったようです。
ということですが、率直な感想・・・今年の城館跡探訪で青笹町の花館の次くらい驚愕した館跡でもありました。
段状の形状(帯郭)・・・ガス施設跡付近
北西側の帯郭
石倉館の概要
まずは登り始めてから早期のうちに北西側の雑木林、南東側の杉林には段状の形状が確認でき、双方の上方には比較的大きな平場が展開されている。
この時点でガス施設跡地が主郭とみて終わりなのですが、どうもさらに上部の山野にも帯郭らしい形状があり、さらに上部、奥へと進むと、南北60m、東西10~20mのかなり広い平場があり、2段~3段の帯郭が周りを囲んでいる。
背部の空堀跡
遠野でも大きい部類に入ると思われ、幅8mに及ぶ・・・。
背部には空掘跡有、2重堀と思われますが、鱒沢館跡の空掘を彷彿させる大きさを誇り、2重目はおそらく空掘だと思われますが、上部で道跡のような形状となっており、空掘跡を林道として使用したものか、いずれ2重堀であろう・・。
自然の形状をさらに人的に加工した形跡もみられますが、遠野の城舘跡では比較的大きい方でもあり、防御性も優れていると判断できます。
空掘はともかく、階段状に展開された帯郭は北側以外全ての方角に展開され、みるべきものがよく残されている館跡でもありました。
館跡南東側にある八幡神社
なお、石倉館としておりますが地元では館(たて)と呼んでいるそうです。
岩手県内の城舘跡をほぼ網羅する日本城郭体系2には主な城舘として掲載はされていないが、一覧の中で石倉館として掲載されております。
おそらく書籍の著者が遠野、宮守を調査した際に、地元へ照会してその他の城舘跡の一覧として資料をいただいたものと思われますが、近くの地名からくる石倉をそのまま館名としたものと思われます・・・(屋号に石倉有り)
はっきりいいますとこの地域での主要な館である宮守館(別名・小沢館、熊の洞館)と同規模か、或いは若干大きい印象がいたしました。
館主は伝えられていないが、宮守氏に何かしら関連ありそうな感じは否めません。
宮守氏の一族が居たものか、それとも神成館から小沢の宮守館に主館を移す以前にこの石倉館を築き、後の時代に宮守館へ移ったのか・・・・こちらは本編サイトにて考察を加えたいと思います。
最後にひとつ・・・
慶長5年の遠野の政変にて、宮守館の宮守主水は遠野方の上野広吉に攻められ、宮守館は落城、宮守一族は各地に四散したと宮守館麓の説明板には記されているが、宮守主水は南部利直より宮守の旧領に5百石を拝領され、宮守代官の要職にあった、後に改易となったが、子孫は再び南部家に登用され南部藩士となっている。
慶長の遠野政変で鱒沢氏や上野氏へ加担したからこそ、宮守氏は南部家より所領を安堵されたものと考えるべきであろう・・・。
この中で、ひょっとすると宮守氏は二つの系統があって石倉館の宮守氏、宮守館の宮守氏・・・宮守館の宮守氏は謀反に加担せず遠野方に攻められ没落、一方石倉館の宮守氏は謀反側となり、その恩賞として新たに宮守の領主となったものか・・・こちらも後日、本編サイトにて・・・・。
(上宮守の善勝寺の草創に宮守主水が関わっている)
おまけ・・・・
宮守町(旧宮守村)は遠野と歴史的つながりが深く、共有している事柄が多いと人はいう・・・まさしくその通りかもしれませんが、阿曽沼時代はともかく江戸時代に関しては、遠野南部領は上宮守と一部下宮守、上下鱒沢で達曽部、下宮守は盛岡南部の直轄地であったのです。
宮守地域が一貫して遠野の領域だったとは本来はいえない史実もあったのです。