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「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

ミイラとりがミイラに

2008-12-14 19:35:51 | その他
 13日、盛岡での忘年会を終え、お昼近くに帰宅。
 二日酔いではなかったが、少しダルイ、眠いということで少し横になるも、課外授業で登校している長男から迎えに来てほしいとのメール・・・帰宅すると今度は夕飯の買い出しに付き合わされ、さらに嫁さんが忘年会ということでアッシー君になって街まで送っていく。

 その後に今度はクラブで市外遠征に出かけていた娘から迎えに来てコール・・・ 前日に楽しんできたというバツの悪さもあって、ここは文句も言わず黙々と任務をこなす・・・・。


 夜の10時・・・嫁さんから帰宅するので街まで迎えに来い・・・との指令。
 
 これも任務とばかり愛車で向かうも・・・・本日の忘年会は女性だけの忘年会だったらしく、義妹に今から飲もうと誘われる。
 昨日の今日ということで、少し躊躇したが、一次会の面子の女性達全員が来るらしい・・・汗・・・ということで誘惑に負けて二次会から小生も参戦することになりました・・・・汗


 大奥ぶれんどを凌ぐハーレムナイト・・・大汗




 カラオケで大盛り上がり・・・男は小生ひとり・・・別な意味で圧倒される・・・汗
 それと開始時間が遅いのでエンジンがかかった頃は0時をまわっていた・・・。

 知らないと思っていた女性陣、「何処かで一緒に飲みましたよね」とかほぼ週に1度は顔を合せている女性がいたり、知り合いの娘さんだったり・・・横には嫁さんも義妹もいるというのに・・・・大汗
 そんなこともあってハイペースで飲んでしまった・・・・


 でっ翌朝はなかなか起きれなかった・・・



 猫親父化していた14日の朝・・・
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盛岡冷麺狂想曲

2008-12-13 20:35:24 | その他
 某団体の忘年会がこのほど盛岡市内で行われ、夜の盛岡は実に2年ぶりということになりますが、これに併せて昼前に盛岡入り、好物のひとつである盛岡冷麺殲滅作戦敢行という中年オヤジの身としては、なんともアホな試みをしたものか?・・・汗・・・と思いつつも、今回、10時間で盛岡市街地の有名処3店の盛岡冷麺を殲滅いたしました。


上の橋から中の橋方面(中津川)

 生憎の曇空


 今回は自家用車を新花巻駅に停めて列車にて盛岡入り、歩きで盛岡市街を廻るのもたまには良いかな、なんて考えておりましたが、今回は何処まで乗っても100円という循環バスでんでん虫号なるバスを利用、まずは上の橋傍の「肉の米内」の盛岡冷麺からスタートとなった。




 精肉店では盛岡の老舗というお店、此処の盛岡冷麺は地元の通を唸らせる美味さという前評判があり、以前から気にはしていたのですが、なかなか行くことが叶わずといったところでした。

 まずは、精肉店直営の焼肉店ということもあり、味見程度にカルビを注文、さらに後の展開に若干支障をきたす結果が待ち受けていることも考えず生ビールを注文・・・汗




 続石(さすが)、肉屋さんの焼肉、味付けも小生好み、ビールが進むは進む・・・汗


 頃合いを見計らって冷麺を注文。




 しっかりとした麺、濃くのあるスープ、確かに美味い!
 前評判通りであると感じるも、個人的には酸味の効いたキュウリが若干気になった。
 無論、味覚や好みは個人差がありますからね・・・・。

 そして他のお店より量が少し多いのか?殲滅するのに時間が案外かかってしまった・・・というより、ここがアホなところ・・・調子こいて中生2杯も飲めばお腹が苦しくなるのは当たり前・・・・大汗・・・真昼間から地元の名物食べて酒飲んで・・・贅沢とはこのことか・・・ちょっと反省・・・汗


 でっ、なんとか殲滅



 満腹も満腹、かなり苦しいと感じながら盛岡駅方面へ移動の為、バス停でバスを待つも、これではいけないと考え、バスをスルー・・・バス停3つ程を歩いて移動、途中の岩手医大付近で循環バスに乗って盛岡駅に到着。

 予定では、駅前のGENプラザビル2階の「盛楼閣」で2杯目の盛岡冷麺を殲滅する計画でしたが、店の前に佇んだだけでスルー・・・汗
 そのまま同ビル4階のグランドサウナに入ってしばし休憩・・・。


 辺りが薄暗くなり出した頃、サウナを出る。
 さて、そろそろ冷麺も食べれる状態になったということで、盛岡駅フェザン地下の飲食店街へと移動。
 此処には「三千里」という焼肉店の支店があるはず、次のお店は三千里に目標を定めてましたが、探せなかった・・・汗
 此処は今一度「盛楼閣」か・・・と悩みましたが、駅地下から出て、開運橋近くにも「三千里」があるとの情報を得てましたので、迷わず移動・・・丁度お店が開店したところへ入店する。





 三千里といえば、ひと頃スキーをしていた頃に雫石スキー場や網張スキー場の往復で、街道沿いにお店があって、よく目にしていた店名でもありました。
 残念ながら当時はまだ盛岡冷麺の美味しさがわからなかったので入店することはありませんでしたが、こちらも盛岡冷麺の名店、口コミでもなかなか評判の味なようです。





 深みがある色合い、しかしスッキリとしたスープ、冷麺の麺としては細麺の部類か?食べやすい、しかも長さ15センチ位の麺、これはほんとに食べやすい、盛岡冷麺初心者にお薦めしたい盛岡冷麺といった印象、自分的にはまた食べてみたい盛岡冷麺のひとつに加えられた思いです。


 でっ・・・殲滅




 忘年会の宴まで1時間半近くある。
 一旦腹ごなしを兼ねて盛岡駅に徒歩で移動。


 駅前のイルミネーション


 
 拡大画像は分家ブログ「遠野発信・MAYAKUSYAず」(ブックマークから)をご覧ください。



 駅前のクリスマスイルミネーションを少し見てから、またもや開運橋を渡って徒歩移動、菜園のホテルにチェックイン後、すぐ横の某店に入って忘年会が開宴となりました。


 三陸浜焼き


 三陸の魚介類を網焼きでいただくコース、小生魚介類関係はほとんど食べれないので、ただ飲むだけ・・・汗・・・冷麺を食べて満腹ということもありましたが、食べたのが通しの豆腐と蛸の串焼き一本のみ・・・・まっ、皆さんが満足して楽しそうな雰囲気でしたので、別な意味では良い忘年会だったものと思ってます。


 宴も終わり、盛岡の夜は更けて参りますが、場所を変えて勢いをそのまま二次会へ突入、たいへん盛り上がった二次会でしたが、頃合いを見て小生は退散となり、本日の締めと決めておりました「食道園」に一人入店しました。




 云わずと知れた盛岡冷麺発祥のお店、元祖である盛岡食道園。
 小生にとっても盛岡冷麺の美味しさを教えていただいたお店でもあります。

 若い頃、当直の夜は先輩方が夜食として冷麺の出前を頼んだりしておりました。
 当然、それに付き合わされて小生も夜食としての冷麺を何度となく食べたのですが、どうしても美味いものだとは思えなかった。
 友人達と何度か盛岡で遊んだ後、食道園で焼肉、冷麺を食べた記憶がありますが、この時、盛岡冷麺が遠野で食べた冷麺と少し違うこと、基本的には同じなんですが、スープの美味さや麺の喉越しが違ってたいへん美味いと感じたのが食道園だったのです。

 それから「ヤマト」や「ぴょんびょん舎」といった郊外型といいますか、街道沿いの焼肉レストランで盛岡冷麺好きに拍車がかかったという思いでもあり、小生にとっても盛岡冷麺の元祖といった場所でもあります。





 やはり美味かった・・・
 最高に美味かったです・・・笑・・・夕方に食べた冷麺もお腹の中で落ち着き、忘年会ではほとんど何も口にしなかったこともあり、そして飲んでの締めということもあって、体調的にも精神的にも条件が揃っていたこともあると思います。

 

 ということで殲滅



 盛岡市街地には、まだまだ美味いと評判のお店がございます。
 今回のような盛岡での宴という機会がありましたら第2弾も有かな・・・と考えてますが、いつまでも健康も含めてこんな試みができる年齢でもなく、また経済的に余裕があるわけでもありませんが、思いだけは次回も・・・というところです。


 最後に繰り返しになりますが、各お店の味、何処が美味いとか、特に不味いとかいうものではありません。
 あくまでも個人の味覚に関連する内容でもあると思いますので、ひとそれぞれということになろうかと思います。

 小生は盛岡冷麺として営業しているお店のほとんどの盛岡冷麺は美味しいと思っております。
 
 盛岡冷麺最高!がんばれ盛岡冷麺・・・
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西風館八幡様

2008-12-11 20:01:50 | 遠野
 内容は2008年12月9日のものです。

 小友高館跡探訪前に家の所用があって、綾織町日影の叔父宅を訪ねた。
 叔父は留守であったが従妹と叔母さんが対応くださり用向きは滞りなく終了、帰り際に叔母さんが西風館八幡様が昨年よりもさらに立派になったので見て行ったらと言うので、カメラ片手にお参り方々、見学して参りました。












 西風館跡は遠野遺産認定第一回目で選定されましたが、遠野遺産認定前に地域によって社殿が建て替えがされておりました。
 此処八幡社が鎮座する下部部分も舘跡の一角であり、その関係で遠野遺産に関わる助成金等で神社周りを整備したようです。

 真新しい木製の階段が取り付けられ砂利も入れられ、まさしく西風館八幡社が名実共に復活といった雰囲気でもあります。


 それでも、社澱の背後数メートルは釜石道ルートの用地に入っており、数年後には高規格道路の法面下という環境で風景もかなり変わりそうです。








 神社の由来や歴史は良くはわからないので説明できませんが、小生の母親が子供の頃は元朝参りも結構盛んで、太平洋戦争では出征する若者も多くお参りしたということです。

 その後は、徐々に衰退し社殿も荒れるに任せていた雰囲気ですが、ようやく復興ということかもしれません。

 奉納された鉄剣等には昭和初めの奉納が多く、確認したものでは明治中頃のものが一番古いといったところでした。





 2年前に訪ねた際は社殿下の山林の中にありましたが、移動したような・・・?
 ところで「三方金神」とは・・・?・・・前も訪ねたような?・・・。




 ということで、腰の具合もあまり芳しくなく、明番で帰宅してからは何処へも行かず家で静かにしておりました。

 本日の画像がありませんので、いつものことですが、今日のネネということで・・・・。










 さて、忘年会の季節でありますが、小生、お付き合いの幅が狭く知人も友人も少ないもので、予定される忘年会は多くて2~3度程となりそうです。

 まずは12日、某団体での忘年会が盛岡市でありますので、一泊で出かけて参ります。
 日中早くに盛岡入りして、盛岡冷麺の食べ比べを目論んでおります。
 昼に1軒、宴会が始まる前に1軒、そして宴会後の締めに1軒、翌日の昼近くにもう1軒・・・4杯の計画ですが、なんとか3杯はいきたいものです・・・汗

 今回は盛岡街中の名店で食べたいと考えております。
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高館 (小友町)

2008-12-09 20:43:08 | 歴史・民俗
☆高館・・・遠野市小友町鷹鳥屋
      標高480メートル・比高126メートル
      館主・不明




 遠野市小友町鷹鳥屋地区の北、物見山の南西に位置する山野にある。
 館跡は急な斜面となっており、北東の斜面続きの尾根を3本の堀切で断ち切り、空堀は山を取り巻くように相互に駈け下っている。

 主郭は南北約50メートル、東西約10~20メートル

 南東側斜面に3段の平場、南側斜面にも断続的ながらも5段程度の平場が展開されている。



最奥部の空堀(堀切3重目)



2重目



主郭背部の堀切



空堀・・・主郭西側下






主郭平場



帯廓



 3重の空堀やら堀切を残す館跡、まさに遠野規格型に相応しい構えで、空堀も判然としており、かなり高感度であり、しかも青笹町の中沢館以来1年ぶりに見た思いがいたします。

 雰囲気は同じ小友町の奥友館を2回りほど小さくした感じや土淵町の本宿館の作りに似ていると感じました。


 真下には鷹鳥屋館(平山城)が手に取るようにみえますが、鷹鳥屋館の見張り的な役割があった館ではないのか?と考察されたりもしているようです。
 館の構えは極めて戦国的であり、鷹鳥屋館が造られる前のこの地域を治める人物の居館だったのではないのか?という雰囲気もしないでもありません。

 高館と古くから呼ばれているようですが、妄想ながらも鷹鳥屋の「鷹」を使っての鷹館だったかもしれませんね・・・・。


空堀の合流地点




 館跡資料によると、かなりきつい斜面登りと高所にあるといった雰囲気、館下のお宅で場所を聴いてから山野突入となったが教えられた場所は空振り、結局は谷に降りては別峰への登りが3度、全身サウナ並の汗をかきながらの山野徘徊、結局山頂も極めましたが、遂に発見できず・・・・。
 高さは南に見える五輪峠と目線は同じ、標高700メートル地点までは登ってきたことになります・・・それ以上かもしれません。


平笹集落方面



土室、物見山方面

 

 あきらめ下山となりましたが、何処で間違ったのか尾根ひとつ西側を降りて来たようで、丁度半分位の高さの場所に平らな尾根が・・・・その場所に堀切が・・・大汗・・・なんともいえない発見劇でした。

 それでも資料のとおり斜面はきつく、高さも結構ありました。


 岩手のGOさんや山猫さんになった気分・・・汗・・・謝・・・ですが、実は10日程前から腰に違和感が・・・痛いというわけではないのですが、仰向けに寝ると腰の辺りが苦しくなり、ソファに少しゆったり座っても同じ症状・・・でも歩いていると何も感じなくて、ついつい山野徘徊に出かけてしまうんですよ。

 しかし今回のは、かなり腰に効いたようです。かなり違和感が・・・腰の筋肉通なのかもしれませんが、数日館跡探訪は見合わせようと考えております。


高館
 
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土淵町米通川流域館跡探訪

2008-12-08 20:45:08 | 歴史・民俗
 予てより土淵町栃内地内にあるという「なれえ館」探訪の際にご同行をお願いしておりました「遠野ぶれんど」仲間であるaboutさんと共にふたつの舘跡を探訪いたしました。


☆なれえ館(西風館)
 土淵町栃内、米通川と琴畑川が合流する東側の山野にあるといわれますが、例の舘跡関連資料を見てもどうも場所的にピンと来ない・・・・。
 米通川も琴畑川も小烏瀬川に各々合流しているものとばかり勘違いしておりまして、今回、同行いただいたaboutさんの存在は大きく、続石、地元の御仁であると頼もしく思いました。

 さて、「なれえ」とは漢字では「西風」と書いて「ならい」と読むのが遠野では通例ですが、訛っての「なれえ」?なのか?・・・資料によりますと「なれえ」とは日蔭を意味し、陽が当たらない場所のことを指すようでもあります。

 資料には大型段丘含み最大10段の段差、さらに竪穴跡5個、別斜面にも8段からなる段差がみられ、これほどの舘跡が何故に地元で伝承されてこなかったのか・・・と記述されている。


米通川側の山野






 場所的には資料に示される山野で間違いはなさそうであるが、舘跡特有の段差がほとんど確認できなかった。
 今回は米通川側の山野と琴畑川沿いの山野の間、すなわち谷間的な場所から進入し、まずは米通川寄りの山野へ分け入った。
 こちら部分に資料では遺構が随分と残されているように記述されるも尾根沿いを主に調べたが遺構等は皆無に近かった。

 次に谷間を挟んだ逆側の山野に入るも、若干竪穴跡か?と思える大穴数個を確認するも少し違うような・・・結局空堀跡と思しき溝も発見するもどうやら近年に作られた山林作業用の林道という雰囲気、まさに館跡という雰囲気はあるも確証は得られずということで、結果的には空振りといった内容でもありました。


琴畑川と米通川合流点付近に祀られるお不動さん




 舘跡探訪は空振りに近い内容でしたが、素朴ながらも神秘的な雰囲気が漂うお不動さんを見、まずはこんなこともあるさという思いで、二人で車を駐車した場所にて、しばし神社のことや産鉄のこと等も含めてミニ反省会。

 そんな中、手持ちの資料で気になる場所があってaboutさんに聞いてみますと、すぐ近くですとのこと、折角ここまで来た事、内容が不本意であったこともあり、早速ご案内を受けて米通集落へ移動となる。


☆角地山・・・土淵町米通




 「かくず(ぢ)」・・・角地

 遠野市内には「角地」とされる場所が数か所存在しているといい、その場所には舘跡やらそれと思しき箇所があると見解が示されている。

 舘跡探訪調査で訪ねた附馬牛町大萩の角地、ここは紛れもない館跡でありましたが、米通の角地と大萩の角地の雰囲気がよく似ていたことに驚いております。




附馬牛町大萩の角地山



 かくぢ・・・とは

 裏という意味らしいですが、家の裏とかの裏といった意味合いもありそうですが、何か歴史的に隠された内容があっての呼名なのかもしれません。


米通集落



 さて、米通お神楽様の上方山野ということで、尾根沿いに段差が設けられている雰囲気、しかも興味をそそられるのが、山頂の平場は五角形を成しているということ、資料には城館跡というよりも防御性集落の類で宗教的な匂いも感じさせる。

 早速二人で尾根沿いを進む、傾斜もそれほどきついわけでもなく歩きやすい尾根でもありましたが、山頂に至るまで資料に示される段差等の遺構は確認できなかった。

 ここも空振的な雰囲気が漂うも、なんとか山頂らしい場所に到着。



 五角形でなくてもそれに近い丸みを帯びた形状でも良しとする思いがございましたが・・・・。


逆側から


 なな・・なんと山頂のど真ん中に林道が敷設され、その形状が分からない、しかも笹竹も生い茂り、形状の確認は難しい・・・・。

 少し離れて画像を見るとなんとなく五角形なのか不明ながらもそれらしく見える・・・・しかし、林道によって肝心な部分が破壊されて、今回は確認はできなかった。

 場所的にこちらもほぼ資料の通りであり、場所違いではなさそうですが、他の遺構も確認できず、結局こちらも空振りといった内容となりました。



 先に探訪した「なれえ館跡」そして引き続き訪ねた「角地山」、どちらも安部時代という考察がされておりますが、尾根沿いに展開されていたという段差や竪穴の跡、資料では共通点が感じられますが、角地山に関してはかなり高所で、周りの山々との比較から標高は600メートルを越えた地点でもある雰囲気、防御性集落の詳細はまだ不勉強であり探訪箇所も少なくなんともいえませんが、水辺の近くで若干の高さの山野に挟まれた平地という固定観念が崩れる今回の探訪、遺構等は確認できませんでしたが、それでも若干の痕跡やらその雰囲気は感じられる内容であったことは確かなことでもありました。



ブンブン丸も間近




 鉄の歴史、このことが一番に感じられることでもあります。



 今回、ご同行いただいたaboutさん、たいへんありがとうございました。
 またよろしくお願いします。


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城館跡探訪報告

2008-12-06 19:50:57 | 歴史関連コラム?
 2003年春から遠野市内の城館跡を主に探訪調査しておりますが、当面の目標は100程度の城館跡の探訪としております。
 遠野市内には160前後の城館跡が残されているようですが、資料や山野の雰囲気からその都度選定ということでもありますが、最近は頭打ちとなっており、数がなかなか伸びていないが現状でもあります。
 それでも今こうして自分が探訪した城館跡を思い起こしてみると、結構回ったような・・・・・。


帯廓

 2008.12.4 宮守町上鱒沢 鳴沢館


☆遠野町  5
鍋倉城(複数回)・杉山館(2)・長洞館・袖高屋館・程洞館(2)

☆綾織町  8
谷地館(6)・西門館・西風館(6)・鴨館・万蔵坊・丹内神社・愛宕神社(2)・上野館

☆小友町  7
南館(3)・鷹鳥屋館(2)・奥友館・平清水館(4)・新谷館(2)・及川館・鮎貝館(6)

☆附馬牛町  7
大萩大館小館・角地山館(2)・大野館・小出館・蝦夷塚森・火渡館(5)・根岸館(2)

☆松崎町  8
松崎館(6)・駒木館(6)・八幡館(5)・光興寺館(2)・宮代館・真立館・横田城(8)・阿曽沼館(6)

☆土淵町  9
西内館・栃内館(3)・山口館(2)・角城館・大楢館・本宿館(2)・五日市館・宮沢館(2)・柏崎館

☆青笹町  4
臼館(3)・中沢館(3)・花館(4)・大将館(2)

☆上郷町  10
板沢館(2)・刃金館(2)・林崎館(2)・森下館・太田館・駒込館・大寺館・来内館・糠森館・平野原館

☆宮守町  8
鱒沢館(4)・高館(5)・落合館・石倉館(2)・宮守館(2)・神成館(4)・達曽部館(3)・鳴沢館


 遠野市内分 2008年12月4日現在 66箇所 ( )は探訪回数


他に市外・・・

江刺区5・住田町5・釜石市2・大槌町1・八戸市、紫波町等若干


 全体で80箇所程度ということになりますが、複数探訪している城館跡もありますから延べ探訪回数は200回程度と思われます。
 
 遠野市内においてはまだ総数の半分に満たない数、しかも宮守町関連は資料も乏しく難儀しそうな予感もいたします。



手持ちの館跡関連資料




 先人郷土史家の先生お二人が調べ上げた力作、この資料そのものの存在は昨年の今時期知ったということで、このことからもだいぶ探訪に至る廻り道をしてきたと思ったりもしますが、反面、これがなかったから、自分で舘跡を見つけ見た時の感動は格別なものでもありました。

 自分的には探訪に関して二番、三番煎じという思いはございますが、それでもこういった先人が残した資料はたいへんありがたく、助かる代物でもあります。

 この分野は今や遠野市内では自分一人か?数名といったところと思ってましたが・・・・。






 最近、図書館の郷土資料室で見つけたといいますか、新しく加えられた資料と思いますが、自分以外にも城館跡を調べた方々がいることが少しだけ心強い思いがいたしました。

 城館跡探訪していると時折、館跡近隣の方々と少しだけ接触することがございますが、その際に「この前も3,4人調べに来たっけ」とか「年に10人は見に来ているな」・・・と聞くことがございますので、ようやくこういった内容の真相をみたという思いもいたします。
 ただ残念なのはこうした資料を作成しているとか、準備しているという情報があれば何かお手伝いなり、同行も出来たものを・・・と少しだけ残念でもあります。
 また、きちんと製本された冊子ながらも簡略紹介と画像一枚、地図も添付はされてますが、もう少し内部の遺構等の画像も数枚掲載してほしかったが本音でもあります。


 ちなみに作られた方々は昭和6年生まれの方々の集まりといった雰囲気、小生の親父とほぼ同じ年代、親父はこの世の人ではありませんが、同じ年代の方々が頑張っているということで、ものすごく励みにはなっております。


 ということで、今季もあと僅か、後いくつ探訪調査出来るやら・・・・。



松崎館の堀切


 大小5本の空堀が残されている。
 
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鳴沢館跡

2008-12-04 20:21:42 | 歴史・民俗
 まさにセーフ・・・残された史跡というべきか、とにかく一応安堵という言葉が当てはまる内容ではありますが、遠野郷土資料や城館跡資料に掲載されていない館跡、宮守町上鱒沢の「鳴沢館」を探訪いたしました。








☆鳴沢館・・・遠野市宮守町上鱒沢(船渡)・・・山城

 舘主・佐々木氏  築使用年代 阿曽沼時代・・・他沿革等は不明

 遠野市関連書籍(遠野郷消防総鑑 絆)に記載されている遠野郷内の城館跡一覧のみに記述されている館跡であるが、詳細等情報は皆無に等しく、ただ館跡が残されているという山野の位置のみは地域の知人から教えられていただけ・・・山野の雰囲気から構造等をイメージするのみで、まさに未知の館跡と言っても過言ではありませんでした。





 
 自動車専用道路(釜石道)ルートを示すテープ表示・・・館跡山野1/3部分


 鱒沢から綾織町新里区間における自動車専用道路ルートが決定され、既に工事がされている区間もありますが、遠くから眺めただけでも鳴沢館跡がある山野もルート上にあると予想がついておりまして、できるだけ早期に探訪したいと考えておりました。

 綾織町新里の西風館の下部部分もそのルートに選定され、小生の叔父を中心に地域では西風館を残すといった意味と共に地域の歴史を後世に伝えようということで、第一回目の遠野遺産に申請し、認定されております。

 鳴沢館はどうなのか?まさか上郷町の篠館のように道路工事で消滅といったことも危惧しておりましたが、どうやら舘跡下の1/3程度が道路用地となるようでもあります。
 大方の部分はそのまま残るといった雰囲気で安堵しているところです。



 さて、道路用地として測量等も実施されているようで、山野は木々の枝打やら下草やらがきれいに刈られて比較的歩きやすい環境でもありました。
 今回は道路予定地となる林道沿いに進み途中から杉林となっている北向斜面から山野に突入しましたが、上部の尾根部分には土塁らしき形状や不規則ながらも階段状の形状が確認できました。

 ほどなくして山頂に到着、ここが主郭といわんばかりの形状が目に飛び込んでくる。


主郭部


 山頂を削平し、2段~3段の帯廓で周囲を囲んでいる。

 今回は主郭部の背部へ最初に至ったが、比較的広めの平場があり、常道ではこの部分に山野を断ち切る堀切や土塁があるはずだが、確認はできなかった。


主郭部平場


 東西約20メートル・南北約30メートルの平場であり、その平場から北西側の尾根部分を削平して下部に向って5段の小さな平場が展開されており、北東側斜面には不規則ながらも数段の帯郭、一部空堀跡とおぼしき遺構が尾根沿いの平場下からそれぞれ下っている。


尾根沿いの段差



尾根沿い平場下の空堀跡





北東側斜面の帯廓



西側斜面の帯廓


 西側は急斜面となっており、3段程度の帯廓が確認できる。


南側斜面の帯廓




 空堀跡と確信できる内容ではありませんでしたが、判然と残る帯廓や段差のある平場、土塁といった遺構は健在で、好印象の舘跡でもありました。

 雰囲気は上郷町の駒込館(瓜ヶ森)に似ておりましたが、主郭部が判然としており、ここが本丸であるという誰が見てもわかる構造の舘跡は初めてみた思いがします。

 ただし、背面には平場を挟み、さらに高い山頂が控えており、もしかするとその部分に堀切等の遺構が残されているかもしれません。
 今回は、誰が見ても此処が本丸跡と思える形状に騙され、その部分を主に探訪してしまい背後の山頂は探訪しておりません。

 いずれまた探訪の機会を得て、さらに調査したいと考えております。









猿ヶ石川を越えて向いの城館跡・鱒沢館



 鳴沢館主の佐々木氏・・・鱒沢氏の家臣的立場であった雰囲気も感じられ、鳴沢館は鱒沢館の支城といった意義かあったのか?或いは鱒沢地区も若干の金脈があったと伝えられるので、産金に関わる舘跡なのか?・・・・とにかく資料も皆無に等しく、伝承も同様といったところです。



かつての猿ヶ石川跡
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丹内館跡(丹内神社)

2008-12-03 19:59:36 | 歴史・民俗
 画像は12月1日の撮影です。


 12月1日、江刺区梁川の高間館跡を探訪し、その遺構のすばらしさに感動した余韻も束の間、遠野市内にとって返して今季の探訪箇所として選定していた綾織町長岡の丹内神社付近に残されているという舘跡を探訪いたしました。


 丹内神社入口


 館として機能していた時代の堀跡を参道としたものと推測される。




☆丹内館(丹内神社・別名 不明)・・遠野市綾織町手代森 丹内

 遠野市綾織町長岡地区の丹内神社一帯が館跡であったと考察されている。
 標高282メートル・比高49メートルの山城
 
 残されている遺構としては・・・
 空堀跡、段丘、土塁・・・神社、墓地跡、別当家屋敷跡(平場)

 館主は不詳、築使用年代は安部時代とある。



 斜度の少しきつい、かつては堀跡と思われる参道を70~80メートル程進むと前方に茅葺屋根で市内では大きめのお堂(丹内神社)が見えてくる。

 お堂の広場下は杉林となっており、木々が鬱そうとしているが、階段状の腰郭が数段展開されているのが確認できる。

 今回はお堂脇を通り、まずは東側から探訪、低い笹竹が密集しているが、斜面には数段の段差が確認できる。
 
 そのまま、お堂の背後の平場へ移動すると、2重の空堀が横断しており、特に2重目の空堀は、案外大きく、深さ2.5メートル、幅3メートル弱の立派な空堀跡を確認いたしました。
 空堀はそれぞれ東西の斜面へカーブしながら下っております。


 山野を横断する空堀跡(2重目)


 2重目







 また、空堀を越えた背後は低い山頂となっており、北側斜面は杉林、山頂を少し北西側に進むとさらに高い山野となっており、西側斜面は笹竹が密集しており図面には2段程度の帯廓が記載されているも、笹竹により画像では確認できない。



 少し進んだ山野の峰には、遠野町の袖高屋館跡でみた水路跡と思われる溝が2重ほど確認された。





 産鉄に関わる鉄穴流の跡なのだろうか?・・・綾織の手代森(長岡から山口)一帯は、かつて砂鉄が豊富だったと考察され、鉄さいが見られる場所も存在しているといわれ、丹内の「丹」は「鉄」を表す時代もあったといわれ、産鉄に何かしら関わっていた地域であったと考察されております。



 ここ丹内神社に関する概要は、ほとんどわからず・・・それでも考えられる書籍や資料等は一応目を通したつもりですが、綾織の丹内神社に関する記述等は確認できなかった。
 この方面は、いずれ笛吹童子氏等がご紹介するものと期待しております。





 結構大きく立派なお堂ではありますが・・・・




 裏側に回ると屋根は落ち、床も抜け落ちている状態でありました。
 

 手持ちの館跡資料によりますと、享和2年(1802)の百姓一揆で、丹内神社は藩主から閉門1万日(約30年)の処分が下され、以来神社は荒廃し、やがて地域の人々からもその存在を忘れられたとのこともあり、伝承等も残されていないとある。


 お堂を見ると茅葺屋根とはいえ、そんなに古い建物でもないような・・・。


 地域のとある御仁にお聞きしましたが、昭和30年代、その方が小学生、中学生の頃は夏休みとなると地域の子供達で丹内神社のお堂で学習道具を持参で勉強会等をしていたという。
 また、僅かな記憶ながらも、大人達に交じってお堂内で煮しめや漬物といった料理を持ち寄って宴が行われていたといいますから、例祭や宵宮といったことが執り行われていたものと推察されます。
 さらにお堂奥の北側にはかつての共同墓地があって、お堂脇に通い道があったといい、今は墓地も別場所となり誰も通る人は無くなったようでもあります。
 この方も社会人となってからは、ほとんど丹内神社に行ったことはなく、屋根が抜け落ち荒れているだろうと予想はしていたが、ここ20年は行った事はないという・・・・。




 ピンボケですが内部の画像・・・・

 一応錠はありましたが、鍵がかかっていないが現状、しかし一人の力では引戸を開けることは叶わず・・・といいますか開かなかった・・・汗

 お堂の建て替えか屋根の吹き替えでの地域の方々からの寄付等を示す氏名がずらり書き並んだ板も確認できましたが、画像に収めることはできず、また字が見えなかった(離れ過ぎていて)・・・汗



 ということで、神社の由来やその歴史といったことではなく、あくまでも舘跡としての探訪ということをお含み置き願います。



入口
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高間館 (江刺区)

2008-12-01 21:16:54 | 歴史・民俗
 朝から天気も上々、本日は絶好の館跡めぐり日和ということで、予てから気になっていた奥州市江刺区の高間館跡と綾織町長岡の丹内神社(仮称長岡館)を探訪いたしました。

 綾織町の丹内神社に関しては12/3エントリー予定としております。



☆ 高間館跡(別名 中田城) 奥州市江刺区梁川


 江刺区梁川地区に入り、案外迷わず行きつけたが、標柱背後の山野が沢を挟んでふたつ程・・・はて、どちらが?・・・まずは民家のある向って左手の山野に突入するも空振り。
 山腹に林道があったが、さらに奥に高い山野があって、そこを目指すも笹竹やら細いとげとげの木々に難儀し、一度標柱の場所に戻って地域の方々から聞いてみようと思う。

 一旦戻ったが誰も歩いていない、近くの民家から聞こうかとも思いましたが、今度は右手の山野に突入しておりました・・・汗
 結局、こちらも空振り・・・すると奥部に沢があって、その上にきつい斜面の山野が・・・・かなり怪しい・・・少し斜面を登ると段差が3段程・・・空堀跡とわかる形状も確認でき、この上の山野が館跡と確信する。








帯廓


空堀



 東から西に延びる丘陵にあり、山野を2重の空堀がそれぞれ流れ、内部の斜面には6段なる帯状の腰郭が設けられ、他に切断された土塁や堀切道がみられ、空堀との連結等、極めて複雑な構造となっている・・・(日本城郭大系2より引用)


主郭背部の堀切




堀切2重目


 
 特に堀切2重目は複雑な構造となっており、土橋で奥部と連結されている。








 


 さて、舘主を菊池次郎親孝と伝えられる。
 高間館の菊池氏は、舘跡を示す標柱には天正18年 和渕の戦いで討死にしたと記されている。
 日本城郭大系2には、天正の頃、菊池氏は高間館の完成を見ないまま、この地を去ったとしている。
 すなわち築城をはじめたが、主家江刺氏が奥州仕置等で一時的に没落すると運命を共にしたものか?
 ただし、今回の探訪では途中で工事を中止した館には見えなかった、きちんとした立派な館跡であったがまずひとつの感想でもあります。

 さらにこの高間館は遠野市宮守町上鱒沢の鱒沢館と酷似していると記されていること・・・・。
 確かに山野を取り巻く2重の空堀、複雑な主郭背部の堀切、整然と配された帯廓・・・共通点が確かに見られる。






 (日本城郭大系2から転載)


 強いていえば、鱒沢館の方が高間館の3倍は規模が大きい、遺構のひとつひとつを見てもその大きさの差はあるも、構造そのものの複雑さは高間館の方が多く見られ、築舘に係る土木工事の規模は鱒沢館に匹敵されると考察されている。

 江刺にいながら、さながら遠野の舘跡にいる錯覚を覚えるほどでもありましたし、鱒沢館ばかりではなく、背後の堀切の形状は上宮守の石倉館や松崎の松崎館、まさに遠野型規格そのものであったこと、このことに驚きを隠せませんでした。

 江刺の菊池氏は遠野の諸氏と何かしら交流があったものなのか、疑問が若干残る場面でもありますが、高間館の築館年代が天正年間(1573~1592)とすると、遠野の鱒沢館や松崎館の方が時代的には早いといったことも伺われ、いずれ安部時代や鎌倉時代と多く考察される遠野の館跡が戦国期辺りに多く築館されたのではという考えが成り立つ場面でもあり、今回はなかなか良い探訪が出来たと考えております。


 久々に山城といった館らしい館を探訪したという思いが残り、まさかそれが遠野ではなく江刺であったこと、これもたいへん印象に残る高間館の探訪でもありました。




 釜石道工事中・・・江刺区梁川




おまけ

 高間館跡で出会ったカモシカ




 ズーム画像はこちら




 2時間近くもかけて間もなくアップという時に・・・某町で建物火災発生・・・帰宅してからのアップとなりました。
コメント (4)
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