「じぇんごたれ」遠野徒然草

がんばろう岩手!

高間館 (江刺区)

2008-12-01 21:16:54 | 歴史・民俗
 朝から天気も上々、本日は絶好の館跡めぐり日和ということで、予てから気になっていた奥州市江刺区の高間館跡と綾織町長岡の丹内神社(仮称長岡館)を探訪いたしました。

 綾織町の丹内神社に関しては12/3エントリー予定としております。



☆ 高間館跡(別名 中田城) 奥州市江刺区梁川


 江刺区梁川地区に入り、案外迷わず行きつけたが、標柱背後の山野が沢を挟んでふたつ程・・・はて、どちらが?・・・まずは民家のある向って左手の山野に突入するも空振り。
 山腹に林道があったが、さらに奥に高い山野があって、そこを目指すも笹竹やら細いとげとげの木々に難儀し、一度標柱の場所に戻って地域の方々から聞いてみようと思う。

 一旦戻ったが誰も歩いていない、近くの民家から聞こうかとも思いましたが、今度は右手の山野に突入しておりました・・・汗
 結局、こちらも空振り・・・すると奥部に沢があって、その上にきつい斜面の山野が・・・・かなり怪しい・・・少し斜面を登ると段差が3段程・・・空堀跡とわかる形状も確認でき、この上の山野が館跡と確信する。








帯廓


空堀



 東から西に延びる丘陵にあり、山野を2重の空堀がそれぞれ流れ、内部の斜面には6段なる帯状の腰郭が設けられ、他に切断された土塁や堀切道がみられ、空堀との連結等、極めて複雑な構造となっている・・・(日本城郭大系2より引用)


主郭背部の堀切




堀切2重目


 
 特に堀切2重目は複雑な構造となっており、土橋で奥部と連結されている。








 


 さて、舘主を菊池次郎親孝と伝えられる。
 高間館の菊池氏は、舘跡を示す標柱には天正18年 和渕の戦いで討死にしたと記されている。
 日本城郭大系2には、天正の頃、菊池氏は高間館の完成を見ないまま、この地を去ったとしている。
 すなわち築城をはじめたが、主家江刺氏が奥州仕置等で一時的に没落すると運命を共にしたものか?
 ただし、今回の探訪では途中で工事を中止した館には見えなかった、きちんとした立派な館跡であったがまずひとつの感想でもあります。

 さらにこの高間館は遠野市宮守町上鱒沢の鱒沢館と酷似していると記されていること・・・・。
 確かに山野を取り巻く2重の空堀、複雑な主郭背部の堀切、整然と配された帯廓・・・共通点が確かに見られる。






 (日本城郭大系2から転載)


 強いていえば、鱒沢館の方が高間館の3倍は規模が大きい、遺構のひとつひとつを見てもその大きさの差はあるも、構造そのものの複雑さは高間館の方が多く見られ、築舘に係る土木工事の規模は鱒沢館に匹敵されると考察されている。

 江刺にいながら、さながら遠野の舘跡にいる錯覚を覚えるほどでもありましたし、鱒沢館ばかりではなく、背後の堀切の形状は上宮守の石倉館や松崎の松崎館、まさに遠野型規格そのものであったこと、このことに驚きを隠せませんでした。

 江刺の菊池氏は遠野の諸氏と何かしら交流があったものなのか、疑問が若干残る場面でもありますが、高間館の築館年代が天正年間(1573~1592)とすると、遠野の鱒沢館や松崎館の方が時代的には早いといったことも伺われ、いずれ安部時代や鎌倉時代と多く考察される遠野の館跡が戦国期辺りに多く築館されたのではという考えが成り立つ場面でもあり、今回はなかなか良い探訪が出来たと考えております。


 久々に山城といった館らしい館を探訪したという思いが残り、まさかそれが遠野ではなく江刺であったこと、これもたいへん印象に残る高間館の探訪でもありました。




 釜石道工事中・・・江刺区梁川




おまけ

 高間館跡で出会ったカモシカ




 ズーム画像はこちら




 2時間近くもかけて間もなくアップという時に・・・某町で建物火災発生・・・帰宅してからのアップとなりました。
コメント (4)
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