「あなたでしょう、分かっていますよ。」
と住職さんは、さも了解していると言わんばかりに落ち着いて喋り出した。
私の方はぼうっとしながらも、『何の話だろう?。』と畏まった。よく住職さんの話を聞いて彼の言いたい事をきちんと理解しなければいけないと身構えようとした。そこで未だ疲労する頭を振り振り、せっせと気持ちを切り替える努力をした。
「あのダイあなたのでしょう。」
全くと、目を据えた住職さんの顔付を見ると、如何やらこれから始まる話は苦情だなと私には察しがついた。私も彼に慣れて来たと言えた。しかし、ダイって何の事だろう?
「ショウならともかくダイなど。」
この寺で、前代未聞だ。ショウでさえ寺では不埒旋盤のものを、…あろう事かダイよ。…ダイだよ。はあぁぁ…あ…、と、酷く顰めっ面をして溜息を吐くと、住職さんは私を見据えながら手振りで本堂の裏、あちらこちと方向を示した。如何にも腹に据えかねるという具合である。一息つくと、ここで住職さんは
「寺の権威も地に落ちた。」
と一言吐き捨てた。
『さて困った』私は思った。今日の住職さんの言葉は一向に分らない。前以て父から言われていた通りに、せっせと耳を傾けひたすら気持ちを込めて住職さんの言葉に聞き入ったのだ。が、私には全く彼の言葉が理解出来なかったのだ。最初にこれから苦情が始まるのだという事が分かったと思ったのにと、それも勘違いだったのだろうかと、ここに来て自ら自分の判断力が危ぶまれて来る。
「住職さん、怒ってるの?」
文句が言いたいんだよね?と私は彼に確認してみた。すると如何いう訳か私の舌はもつれていた。言葉はたどたどしく覚束ない発音となって口から出て来る。と、住職さんはそんな私の言葉付きに、私の顔をつくづく見詰めてニヤリとした。
「涎が出てる。」
あなた、涎等出して、と、如何にもねんね、赤子の様だ、と嘲られた。
私はハッとして口元に手を遣った。べっとりと手に冷えた液体が付く。手の甲でその液体を拭うと思ったより量が多く、思わず下を向いて確認すると衣類も胸元が濡れている。これは予想外な出来事で私を酷く驚かせた。私は全く気付かぬ内に涎など垂らしていたのだ。
『この歳になって、人前で恥ずかしい!』
そう思うと同時に涙が湧いて来た。思わず目を瞬いてしまう。が、その涙も普段の私に似合わず止めど無く目から溢れ出て来る。何しろ涎については、3歳の誕生日過ぎに父の方からきつく注意を受けていたのだ。
「お前の歳で、如何にも赤ちゃんねんねのようだ。その歳で涎など垂らすのは頭が足りない証拠だ。馬鹿か白痴だ。」
お前は馬鹿なのか、馬鹿にみられるぞ。と念入りにきつく言われていた。私は父の叱責以降、気を引き締めてこの事には注意していた。
それなのに、事も有ろうか住職さんの前で、しかもこう大量に…。そう思うと涙も湧こうという物だった。私は顔を紅潮させて涙や何かでぐしょぐしょの濡れそぼった状態で恥じ入っていた。
恥じか、
「あなた恥じらいが分かるのか。」
住職さんはほうという感じでそう言うと、ふうむと唸った。ではと、お前では無いのだなと言って思案顔になった。
こんな事今までなかったのでな、今年の新参の子の誰かと思ったが、皆前以てこう言う事は言ってあるからなぁ、知らないと言えばお前だとばかり思っていた。温和になった顔で彼はそう言うと、もう行っていいよ。お前が犯人じゃないからねと、私はお許しが出た。
結局、その日の事は私には訳が分からず帰宅した。それにしても、皆何処へ消えてしまったのだろうかと不思議にも疑問にも思った。住職さんのあの様子では、先に走り去った史君は、その前を行っていたお兄ちゃん達は皆住職さんの前を通らなかったようだ。皆何処へ消えたのだろうか?。私には皆目分からなかった。