『大系 日本の歴史 8 天下一統』は1988年10月刊ですが同じ出版社・小学館からその30年後に『日本の歴史 八 戦国時代 戦国の活力』が出されています。
著者も違いますので内容が異なるのは当然でしょうが、同じ時代を取り扱っているので読み比べると面白いです。と言っても拾い読みをしているだけですから、中身の浅い感想になりますが「関東惣無事」についていえば『天下一統』の方は昨日紹介した通りですが『戦国の活力』には目を通した範囲では一言も出てこないのです。
追伸 見落としがありました、一ヶ所ありました。
左側に【「惣無事令」違反だと言いだしたのである】と、北条氏に関係するものではなく、伊達政宗に対するものです。
どちらがと言えば『天下一統』の方が読んでいて納得させられます。信長から始まった天下統一のなかで「惣無事」ということが言われはじめたようです。「惣無事令」についての評価には異論もあるとのことですが、素人としては信長秀吉家康と「天下統一」の動きのなかで支配の制度化をつかんでおきたいと思います。各大名の動向を理解するうえで「惣無事」の説明は必要でした。
では『天下一統』の昨日の続きの前に、
これについては、
【 関白政権における東国政策の責任者は徳川家康が主役となり、上杉景勝は脇役にかわった。そして、九州のばあいと同様に二人の大大名を前面に立て、しかし、政権の奉行衆が秀吉の意を体しながら二人とときに相談し、ときに監視しつつことをすすめるという点で、よりととのった方式がとられるようになった。この関係はまだ完全に制度化されていたわけではないが、あえて図式化するとすれば】としたものです。
昨日は【 以後の政治史は惣無事令の執行をめぐって展開する 】で締めました。そのあと、
京の都に伝えられていた「東国の二つの紛争」は、信州上田の真田昌幸をめぐる問題、それに奥州会津の蘆名氏をめぐる問題でした。ここでは真田昌幸関係だけ引用しておきます。
【 天正一四年暮、秀吉の裁定があり、他の信州大名とともの(真田昌幸が)家康の麾下に入り、知行は秀吉によって安堵されることになったが、沼田領問題はかたがつかなかった。当事者である北条氏が豊臣政権に服属しておらず、上野国は政権の版図の外におかれていたからである。
関東・奥羽を対象とした惣無事令の発動は、北条氏の服属問題を浮上させ、したがって、沼田領をめぐる紛争を政局の焦点にのぼせることになった。
(奥羽における蘆名氏と伊達氏との紛争の経緯に触れたあと)
惣無事令の発動は二つの紛争を焦点とし、北条・伊達の二大大名の服属を主たるテーマとしながら、関東・奥羽の戦国時代を終わらせる方向へと社会を動かした。】
【 北条氏の滅亡】
【 室町幕府(=京都政権)とは離れたところで独自に領国形成を行なってきた北条氏は、惣無事令に接してもその新しい意義を理解できなかった。むしろ、領国に総動員令をかけて防戦の準備をすすめ、あいかわず戦国大名的な運動を、対応を示した。
「小田原評定」の名がのこされているように、城内の北条氏は和戦の対応決定が長引き、おくれをとった。このあたりにも、戦国的な家臣団統制のあり方を変革できなかった北条氏の「古さ」がのぞいている。】
このあと北条氏の滅亡が書かれ、次いで伊達政宗の服属に触れて、
【 伊達と北条とのちがいは、政宗はともかくも秀吉の裁定に服する姿勢を示したことが第一、惣無事令の執行をまかされた家康以下による支持が第二、そして第三にわずかな家来を連れただけで堂々と弁明した政宗の人物を秀吉が認めたことがあげられよう。】