「別離」という題から言えば鶴松の病死、利休の切腹、秀長の病死という主人公信繁にとっての別れがありました。
NHK出版の『真田丸 前編』「略年表」によると第1回「船出」は信繁を16歳としてえがき、最後の第50回が1615年49歳です。今回の舞台になった天正十九年(1591)は25歳でした。前半の25回で信繁の10年間が描かれ同時に信繁の生涯の半生が描かれてもいました。そのなかでも第14回の「大坂」からはじまった信繁の活躍舞台は秀吉の馬廻としての日常で、この形は次回以降も続くようです。
『真田丸 後編』による「あらすじ」の第29回「異変」でその最終部分を、【 文禄五(1596)年閏七月十三日未明。これまでにない大地震が伏見を襲った。 信繁は真田屋敷を飛び出し、秀吉のもとへと急いだ。秀吉の最期と、豊臣家の行く末を予感させる不気味な揺れだった。】と結んでいます。
この後の21回分で《秀吉の最期、「関ヶ原の戦い」に伴い「犬伏の別れ」や「第二次上田合戦」から信繁と昌幸の「九度山蟄居」、昌幸の死、信繁九度山脱出大坂城入城、「大坂冬の陣」「大坂夏の陣」そして信繁戦死》が描かれるのでしょう。まさに波瀾万丈の時代劇絵巻が展開されます。
それだけにこの間の信繁が見聞きする秀吉とその周辺の描き方が、かなり細かく長く描かれているなぁとの感じがします。そして脚本を担当された三谷幸喜さんのインタビューが思い出されました。
こうあります、【 天正壬午の乱が終わると、大坂城の群像劇が始まります。「人たらし」と言われ、天性の陽気キャラだった秀吉が、次第に暴君に変わっていく過程を丹念に描き、馬廻衆として秀吉のそばにいた信繁の視点で、石田三成や茶々といった秀吉周辺の人々を描写します。大坂の陣で、なぜ信繁が豊臣方についたのか、命をかけて秀頼を守ろうとしたのか。その秘密を解くヒントが、若き日の大坂時代にあると、僕は思っています。】
波瀾万丈のなか信繁の言動に必然性をもたらし、視聴者に歴史のなかからひとりの武将の姿を蘇らせ、そして歴史のなかへ多くの人々とともに別れさせる「大いなる別離」に向けて、ひとつ一つの「別離」が描かれていくのだと思います。