逗子の郷土史家・黒田康子(しずこ)さんが亡くなってこの10月で一年になります。その10月に先生の指導を受け、市の古文書の市民的活用を求めてきた人たち(「逗子の古文書と公文書の保存と公開を進める会」略「進める会」)によって講演会が予定されています。
主題は「神武寺を知ろう」で、神武寺副住職の土屋慈恭氏の講演が予定されています。下の写真は「進める会」の小冊子ですが、ここに黒田康子さんが神武寺を紹介した短文があります。この文章がおそらく先生が最後の書かれたものでしょう。
講演会の準備に向けて、神武寺について書かれたものを整理していましたら小田原城攻めの頃のことがこう書かれていました。
【 天正十八年(1590)太閤秀吉公の小田原征伐の際、その余波をうけ山内の殆どが焼失】と。
その余波とは? 当然のことながら当時この地方を支配していたのは北条氏でしょうから、神武寺もその支配下にあった、のでしょう、と考えて……、当時のこの地域のこと何も知らないのです。
更に、この神武寺は神武寺城ともいうべき城郭であったとのことも今日知りました。
【 昭和45年、東逗子駅北側の家号「堀の内」(桐ヶ谷政吉家)という呼び名とその背後丘陵形態が城郭遺構に類似していることに気付く。以来これを以って中世神武寺が自衛上城郭構造を構えたものかと疑い、全山の遺構に注意し神武寺の城郭としての存在を明らかにした。名越切通を中心とする城郭遺構が明らかになり、神武寺山の遺構と似ており名越城との関係が明らかになった。】
鎌倉幕府の防衛線のひとつ「名越の切通し」との関係でも城郭としての位置付けは十分考えられます。鎌倉の玉縄城は小田原城攻めの際、徳川家康によって攻められ降伏したとありますから、あるいは神武寺も家康軍の手によって焼かれたか? その辺をもう少し勉強したくなります。
『葉山町の歴史とくらし』には、
【 天正18年(1590)、ついに豊臣秀吉より小田原城および北条方の諸城への攻撃命令が出されました。葉山地域の住民たちも戦闘要員として駆り出されました。】 とあります。
大河ドラマ「真田丸」もそれ自体面白いのですが、こうしてわが町に引きつけてみると、僧兵だった神武寺の坊さんや戦闘要員にさせられた葉山地域の住民(農民)の姿が見えてきます。大きな変革期にはその枠外で人は生きてはいられなかったのでしょう。