kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

平林堂という本屋。

2014-07-11 20:43:22 | 信州、なかでも上田。

 「実弟」さんから送られてきた一冊の本です。

 

「平林堂」とは在上田の本屋さんです。どういう本屋さんかというと外観は、

というわけで、町の本屋さんとしてはかなり大きいでしょう。 しかしこの本屋さんは並みの

本屋とかなり違うことが、この本にザーと目を通してわかりました。

 

 なぜ、この本を送ってくれたのか、「上田の日本共産党の歴史がわかります」というような

添書きがありました。たしかにそれもありますが、いやいやそんな「小さなこと」ではありませ

ん。本格的に調べたら岩波茂雄伝などに匹敵する人物史、書店史、出版史、文化史、郷土史

等々という側面がかなりスケールの大きさで見えてくるような気がしました。

 

 このブログでの「つぶやき」との関係で、「平林堂60周年」によせられた祝辞を紹介します

と、「真田一族の生れかわりの平林堂」(元同志社大学教授・宇治山宣会顧問・同志社山宣

会顧問・小田切明徳氏)があります。氏は 「徳川にたてつく勇気→こういう反権力が江戸末

の義民→民権運動→と受け継がれた気がします。平林堂の主の平林茂衛さんもその一族

でしょう」と述べています。

 また、平林さんは先日の「つぶやき」の山宣との関係では、長野山宣会の会長を務めてお

られます。6月25日の国宝三重塔と「山宣の碑」。2014-06-25で書いたことは平林さ

んが山宣会の事務局であった頃の雑誌「治安維持法と現代」にかかれたものを元にしたもの

です。


この番組は……。

2014-07-10 22:41:02 | 「てんがらもんラジオ」

 「てんがらもんラジオ」第124回の放送は多分この番組の過去と将来のなか

でも記録に残るものだと思います。

 (番組はここを、http://www.ustream.tv/recorded/49822035 ) 

 

 台風第8号の接近上陸という時間帯に放送されたということで、番組のなか

ほどでゲストの方の時間が取れないことのお詫びを兼ねて次のようなことを村

永さんが言われました、文字にしてみます。

 「この番組はやはり地域の皆さんにね、一番大変な時に、情報をお

届けするというがひとつの大きな目的ですので、台風情報、交通情報、

そういうものをずい時織り込まなければならない。」

 

 原稿があったわけではありません。 この言葉はその場のそのままの気持ち

の表れです。村永さんの気持であると同時に、この荒れ模様のなかスタジオ

に来られた有馬さん、上床さんはもちろんスタッフみなさんの思いが自然に

言わせたことでしょう。

 今日は緊急時の大変な時の大事な情報を届ける役割でしたが、時間的に

言えば子育てとか教育という何年、何十年の期間を通して大事なことを「保

育」についての情報を語ることで届けられました。

 我が子とのかかわり、人とのかかわりで大事なことを「会話・対話のあり方」

をかたることで発信されました。

 番組でひげ爺さんのコメントがいう地域密着とは、こういうことなのだとあら

ためて深めることができました。


虚子 × 秋桜子。

2014-07-09 20:36:59 | kaeruの五七五

 最初にブログの面白さ、について。

 「西村睦子」で検索していましたらこんな頁が。

http://blog.goo.ne.jp/haiku_2007/e/a70a87232c7bfb1d311822adf55af8f8

 このなかに、「著者謹呈」のことが書かれています。

 私の持っている本にも「謹呈 著者」が挟んでありました。

因みに私の本は新品同様で定価3000円に1000円の売値がついていたものです。

古本ではなく、贈呈をうけて間もなく売りに出した、かなり低価格で(手元に置いてお

きたくない?)という背景が「謹呈著者」の札付きに伺えます。

 

 さて、俳句界に不案内(私もそうですが)の読み手の方に、虚子と秋桜子の関係の一頂点

を紹介しておきます。 三省堂 『現代俳句大事典』 からの引用です。

≪「ホトトギス」にあらずんば俳人にあらずと謳われた虚子神格化の俳壇で、初めてのアンチ

・テーゼであった秋桜子の造反、離脱は、そのまま俳句近代の夜明けと位置づけることができ

る。この31年(1931・昭和6年)の「事件」の意義の大きさは計り知れない。≫

 この「31年の事件」というのが昨日述べました “ 昭9 虚子編 〔新歳時記〕”  刊行の

背景になる秋桜子の「ホトトギス」からの離反です。秋桜子が虚子のもとを離れるわけは、虚

子の唱えた「客観写生、花鳥諷詠」が行き着くところ「微細なことが客観的に描かれてゐると

いふことが近代的特色」(虚子)ということになり、高野素十の

  甘草の芽のとびとびのひとならび   などが評価されます。

 これに対し、「何の芽がどうなってゐるとかいふことーーは科学に属することで、芸術の域に

入るものではない」(秋桜子)という批判がでてくるわけです。その挙句 「虚子 × 秋桜子」にな

り、秋桜子は確実に俳誌「馬酔木」を拠点に地位を固めていきます。

  これをみて、虚子は方向転換を図ります。西村さんは≪(昭9 虚子編 〔新歳時記〕の序文

を解説し)これは明らかにそれまでの客観的写生路線の否定と修正である≫として、≪(虚子

は)客観写生の行き過ぎに、みずから実に巧妙にブレーキをかけている。≫≪何食わぬ顔をし

て秋桜子に先手を打つこのしたたかさとバランス感覚の凄さ、これぞ虚子の経営感覚の真髄と

いう気がしてくる。≫と結論づけています。

 

 先に紹介しましたブログでも、そのへんのことを≪極めて衝撃的な分析が書かれている。

気味いいが、ショックでもある。≫としています。 たしかにその通りで、いささか俳句に関心を

持つ者としてこの世界を 「客観的視点」 でみる必要を感じさせられました。


どうして歳時記に 「正月」がなくなったのか?

2014-07-08 18:24:35 | kaeruの五七五

 歳時記とありますが、この歳時記のことです。

 これは増訂版で増訂版の昭和47年28版、初版本は昭和9年(1934)です。

 この本の目次が、これです。

 この目次は冬として1月からはじまっています。括弧書きで(十一・十二月は巻末

にあり)とあります。その冬の最初が 「一月」 で季題として 「一月、去年今年、新年、

元日、元朝、……、」と続きますが 「正月」 はありません。

 6、7日と写真でお見せした 『「正月」のない歳時記』 とはこの本の(初版本)こと

です。ただそれだけでしたら何のこともないのですが、なぜないのか?が面白いの

です。そこには虚子のしたたかな商売人気性が伺えるし、水原秋桜子との確執の

深さが見えてくるのです。

 それを見せてくれたのがこの本の著者・西村睦子さんです。

 6日には 「本の内容は季語に関してかなり専門的になる」 と書きましたが、この

専門というところが面白い部分でした。 一般に「専門」というと難しいということにな

るし事実そうなんですが、すこし踏み込むとそこに面白さがあるのでした。この本の

場合は拾い読みをして次の部分に眼がとまりました。

 ≪昭9  虚子編 〔新歳時記〕

   文学的な作句本位な歳時記。~ 時候・天文・地理・人事・動物・植物と

いった区分を廃し、1月から12月まで月別に分け、雑多に題を並べ簡潔な解

説を加えている。明治36年、自ら採用した新年・春・夏・秋・冬という部立を捨

ててしまった。

 さて、「正月」について何といっているか、

 虚子編「新歳時記」の「一月」にこう書かれています。

≪一年の第一月。今も舊暦の習慣が残っていゐて、正月と呼ぶ人もある。が、極寒

中の舊暦の正月とは感じが違ふ。≫

 西村さん曰く、≪最も大事な行事であった「正月」は旧暦一月の名称であるから、

虚子は「歳時記」から落してしまった。≫

 その背景を≪大正8年1月号の〔ホトトギス〕で太陽暦移行を断行した虚子は、「春」

「正月」「初」と結びつくものは徹底的に排除し、極力太陽暦へフィットしようと努力≫と

書かれています。

 

 ところで、昭和9年という時期に、なぜ、なんの前触れも無しに「正月のない歳時記」

が刊行されたのか、そこには虚子の「背叛者(虚子の弁)」・水原秋桜子に対して、先

手を打つところに狙いがあった、と著者・西村さんは断じています。

 その辺が、俳句界も人間界の一部であるというあたりまえのことが、「衝撃的」に分

かって面白い所なのですが、長くなりますので明日に。


今夜は七夕、でも雨になりそう。

2014-07-07 22:19:48 | kaeruの五七五

 朝方の雨は午前中にはやみましたが、そのまま何時でも雨に戻りそうな気配

で夜に入りました。 近くの乳幼児を預かる建物の前で七夕飾りを持って三四人

の子ども語りかけながら保母さんが二人たっていました。毎年梅雨時のこの日が

七夕では、保母さんは子どもたちに織姫と彦星の逢う瀬をなんと話しているので

しょう。

 俳句の季語では七夕は秋の部、7月7日を「秋」にするわけにはいきませんから、

「夏の部」には「七夕」は載っていません。 和暦(旧暦)では今年の七夕は八月の

二日になります。八月二日を秋とは言い難いのですが、七夕に寄せて夜空、夜風

に秋の気配を感じるとして、秋の部に入れているのでしょう。

 歳時記編纂の歴史のなかでは色々な試行が行なわれた様です。

 

 6日の「つぶやき」で紹介しました

 で、その辺の事情をかなり詳しく追っています。すこし読みこんで紹介したと思います。

こんな句の紹介で、

   戀さまざま願の絲も白きより       蕪村 

  七夕の夜の沖から定期船      浜野 英子

   陸橋の下を七夕竹が行く        広瀬 政雄


沖縄の高校生の「声」。

2014-07-06 22:26:33 | kaeruの孫録
琉球新報2014年7月6日(日)09:46
 「先生、僕たち戦争に行かないといけないの?」。4日、那覇市内で開かれた高教組(県高等学校障害児学校教職員組合)の定期大会で、政府による集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更の閣議決定を受け、生徒たちが不安げに質問してくるようになったとの報告が現場の教諭たちから相次いだ。高校生たちは「戦前」に回帰しかねない危険性をはらむ国の変化を敏感に感じ取っているようだ。
 本島北部のある高校。30代の教諭が授業を始めようと教室に入ると「辺野古に基地が来ると危ないよね」「戦争が始まるの?」と率直な疑問が相次いだ。
 「こんなことは初めてだ」と教諭は驚いた。そして、沖縄に在日米軍の専用施設の74%が集中すること、米軍が他国と戦争した場合、基地が集中する沖縄が攻撃の標的になる可能性を指摘する声があることを説明した。
 「じゃあ、これからどうすれば良いの?
 閣議決定で決まったらもう変えられないの?」。生徒たちの問いは続いた。同教諭は「20歳になったら君たちには投票権がある。どういう政治をしてほしいか考え、そして選挙に行くことだ」と伝えた。
 本島中部の高校でも「先生、集団的自衛権について話そうよ」と声が上がった。40代の教諭は「担当する4クラス全てでこの話題が出た」と生徒の関心の高さを感じた。
 本島南部の学校に勤める50代の教諭は「『先生、普通の授業している場合じゃないよ』と言われた。今まで基地問題について話をしても反応しなかった子たちが、今回は自ら議論を提案してきた。世の中が今までと違っているということを感じ取っているのだろう」と語った。
 「教え子を再び戦場に送るな」。4日の定期大会会場に掲げられた言葉。日教組が1951年に制定したスローガンで長い歴史を持つ言葉だが、ある教諭は「この言葉の重さをこれほどかみしめたことは今までなかった。私は一人の教え子も戦争には行かせたくない」と力を込めた。(仲井間郁江)

( http://news.goo.ne.jp/topstories/region/385/be16b4fadaf653b5645a67b11b4b30e9.html )

 

 石垣島の孫は中2ですが、いま多分彼らの周辺でも同じような不安が話されているでしょう。

 「教え子を再び戦場に送るな」、「子どを孫を戦場に送るな」

 世界の子どもの声に耳を傾けよう。


ある俳句人の「言葉」。

2014-07-06 21:52:42 | 本のひと言

 この本の 「はじめに」 からの引用です。

≪弊社が皆様のお蔭で無事創業七十周年を迎えるにあたり、何か意義のある

記念事業はないかと考えていた折、天啓のごとく閃いたのが、今次の大戦を俳

句で詠んで残そうというアイデアでした。私事で恐縮ですが、私は男ばかり五人

兄弟で全員が出征し、兄と弟は戦死、私は辛くも生き残りました。両親は昭和の

初めから松瀬青々に師事して俳句に親しんでおりましたが、その悲しみを直接

詠った俳句が一句もなく、僅かに母の回想句が数句あるだけでした。

   あきらめて居れど萩咲き月見れば   米子

 父浪華は主宰する俳誌 「青門」 に昭和27年 「跡をたずねて」 を六回のわたり

連載しました。この三男の墜落した地への慰霊の紀行文や母の句を読み、この

悲嘆を二度と繰り返してはならない、戦争体験者が存命の内に何とか俳句という

表現形式でこの戦争を記録しておかねばならない、という思いにつき動かされまし

た。これは生き残った私の義務のようにさえ思えたのでした。≫

 そしてこの人(マルホ株式会社名誉会長 高木二郎・俳号 青二郎)は、全国紙

に「昭和20年8月15日をどこでどのように迎えたか、前書きをつけて俳句を送って

ください」と募集広告を出して呼びかます。10941名が応募、昭和60年12月 『昭

和20年8月15日を詠う 昭和万葉俳句集』 を刊行し、さらに三年後 『同 前書集』

を世に送り出しました。

 この引用した言葉のあと、この本のついて語られているのですが、本の内容は

季語に関してかなり専門的になるもので、ここではその部分は略します。

  マルホ株式会社については、http://ja.wikipedia.org/wiki/マルホ


「てんがらもん123回」、見えぬけれどもあるんだよ。

2014-07-04 16:37:41 | 「てんがらもんラジオ」

 その話を聞いたとき、金子みすゞのある詩の言葉が浮かんできました。

 「見えぬけれどもあるんだよ、 見えぬものでもあるんだよ。

 

 その話とは、「てんがらもんラジオ」123回のゲスト・羽生さんのお話です。

 ( http://www.ustream.tv/recorded/49491953 )

 羽生さんは、地域の「こまどり保育園」の理事長さんで最近まで園長さんを

務めておられました。その話の中で、「見せる保育」という言葉が耳に残って

います。 それは保育の結果が親などの目に直ぐに分かるような保育のこと

を言うのだそうです。 何かを覚えそれを数値で表わすとか、英語を幼児の頃

から教えるとか。子どもは成長が早いので、結果は直ぐ出るそうです、すると親

たちは喜ぶ。

 しかし、「こまどり保育園」ではそういう保育はしない、と言っておられました。

 その時、先ほどの詩が頭に浮かんだのです。

  あぁ、良い保育をしているのだなーと深く心に残りました。

 みすゞの詩 「星とたんぽぽ」 にはこんなフレーズがあります。

青いお空の底ふかく、海の小石のそのように、 夜がくるまで沈んでる、

 昼のお星は眼にみえぬ。>のあと先ほどの二行が続きます。

そして、

散ってすがれたたんぽぽの、瓦のすきに、だァまって、春がくるまでかくれてる、

 つよいその根は眼にみえぬ。>のあとにも二行が入っています。

 

 子どもの心を育てる、子どもの自己肯定感を育てる、それを地域の自然の

なかでじっくりと仲間との生活の中で育てていく、「こころの保育」と呼んでおら

れました。ここには保育はこうありたいと思うものがあります。

 その保育方針の元で30余年、この保育園を巣立っていった子たちの成長

を見てきた立場からの「保育の実績」を伺う機会があるといいな、と思ってい

ます。

 

 前回の向井さんの映像がさっそく改善され、鹿児島弁を楽しく話す表情がよ

く分かり、いっそう楽しく話し合いが見られました、有難うございます。


ブログ・アクセスランキングの異変。

2014-07-04 05:10:50 | どこまで続くかこのブログ

  アクセスランキング 集計 : 2014年07月03日

1

<label> 訪問者 </label>211,212   インターネット政党 「ネット des 新党 」 のブログ  ネット des 新党(ネットで新党)は..。.

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   (赤字はkaeru)
 
 今朝は雨、いつもの時間に起き出しましたが外出無し、そこでブログランキングをのぞいて、!!

 gooブログのランキングの定席1位は「くるねこ大和」、2位は「伊勢ー」というのが私がこのブログ
 
をはじめランキングに関心を持ちはじめてからの「常識」で、訪問者数も「ねこ」8万前後「伊勢」3万
 
というのも変わりありませんでした。
 
 ところが、というのが今朝のこの1位、 内容は見ていただければ分かります。このブログは
週間ランキングでは584位というのですから、安倍内閣による「集団的自衛権決定」を受け
ての世論の変化、激変ともいうべき状況を反映しているとしか思えません。