kaeruのつぶやき

日々のつぶやきにお付き合い下さい

21世紀の「挙兵」。

2016-08-21 22:01:17 | せいじの政治カフェ

   これは「真田丸」の話ではないのですが、それに「真田丸」としては来週のタイトルですので内容は無関係です。

  このタイトル「挙兵」を見た時、この言葉を思い出しました。

 「この流れをつくったのは共産党の志位委員長だ。敵をたおすために兵を挙げることは誰でもできる。逆に兵を引いた。容易にできる決断ではない。民進党は真摯に受け止める必要がある」

   先月の7日、場所は香川県高松市コトデン瓦町駅前での参議院選挙・野党統一候補・日本共産党公認の田辺候補者カーでの民進党小川代表の訴えです。雑誌「前衛」9月号での日本共産党香川県委員長の松原さんの寄稿からの引用です、続いて

「清水の舞台から飛び降りる決意を言われた。私は瓦町フラッグの屋上から飛び降りる決意で今日ここに来た。野党共闘の大義にまさるものはない」

との続いての訴えが紹介され、

この訴えは、SNSで急速に拡散され、視聴者の数は不明ですが、参加していた人、視聴した人に決意が伝わり、強烈な感動をよび、後々まで話題になりました。 

としています。

この時の写真と瓦町フラッグです。


鹿児島発「おじゃったもんせ」。

2016-08-20 23:11:38 | どこまで続くかこのブログ

「てんがらもん」ルートではない鹿児島発のブログです。

映画「ゆずの葉ゆれて」のことが載せられていましたので、

ちょっと先取りして紹介させてもらいます、こちらです。

一見は百聞にしかず、です。こちらをクリックして下さい。

映画「ゆずの葉ゆれて」のことです。


心に残る俳句。

2016-08-20 15:30:58 | kaeruの五七五

好きなというより心に残っているのは、古賀まり子の

紅梅や病臥に果つる二十代

そして、

今生の汗が消えゆくお母さん

です。 

結核により病床にあった二十代、あでやかな紅梅と対比される病床生活、俳句がその生活を支える力になっていることを教えられるました。

愛惜あふれる「お母さん」にも、言葉の持つことのできる深さを教えてくれます。

古賀まり子についてはこちらで、

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/古賀まり子   


俳句の日。

2016-08-19 21:34:35 | kaeruの五七五

きょう8月19日を「俳句の日」に、ということを知ったのはここでした、

       

   俳人の坪内稔典さん、稔典さんは「としのり」と本の著者名にはふりがなが振ってありますが、俳号では「ねんてん」さんです。

   この本は1991年12月にはじめた毎日新聞の連載ものを元にしたものだそうです。だとすれば【 八月一九日を俳句の日に決めたい 】と書かれたのはその翌年1992年のその日の毎日新聞紙面だったのでしょうか、機会があったら確かめてみましょう。

   それに制定された年が1991年と1992年としているものがあります。

ここは1991年、

こちらは1992年、

でもこういう記念日的な月日はどういう仕組みで「決まり」とか「制定」となるのでしょうか。

   坪内さんの本では「八月一九日を俳句の日に決めたい」と書かれていますのでこの時点では一俳人としての坪内氏の希望あるいは決意だったのでしょう。あるいはそれ以前から「俳句の日」制定運動があって、具体的な月日を決める段階に来ていたのでしょうか。それにしても2000年代になって発行されている歳時記に「俳句の日」が載っているものがあるのでしょうか、手元の三種類ほどを広げてみましたが皆無です。

  何れにしてもこの日が夏休中でもありますので、子供たちに俳句への関心を広げようという行事が取り組まれているようで、大いに盛り上げたいものです。

    窓あけて俳句の日の風入れる     kaeru

多分これを句会に出しても採る人はいないでしょう、ためしてみます来月。


「てんがらもん」230回 慰霊の碑鎮魂の碑。

2016-08-18 22:11:57 | 「てんがらもんラジオ」

   旅の話をする向井さんが何回か「頭が真っ白」とか「緊張する」と言っていました。前回でしょうか、紹介した地名の読み方が違っていたのだそうです。私は耳が悪いものですから言い換えてもどこが違うのか分からないのですが、プロのガイドさんとしては間違いは許されないことなのでしょう。

   その緊張のせいか今日の話は主にインターネット情報で、観光協会の公式ホームページからお知らせします、という感じでした。熊本地震以来の観光事情の変化で仕事で東奔西走する機会が少なくなっているようで、ごく最近行ってきたばかりの旅行地の旬の話ではなかったのは残念でした。

   今日の旅の案内先は枕崎が中心で、そこにはカツオ料理の話も聞かれましたが、やはり「火之神公園の平和祈念展望台」が中心でしょう。特に「戦艦大和殉難鎮魂之碑」についての話です。それは指宿市の「花瀬望比公園」の「比島戦没者慰霊碑」と共にこの鹿児島の南端が第二次世界大戦を日本では太平洋戦争と呼ぶことをよく示しているように思えます。

 「比島戦没者慰霊碑」は2200キロをはるかに越えるフイリッピン及び近海に眠る47万人同胞への慰霊の場であり、「戦艦大和殉難鎮魂之碑」は200キロ先の海底に、戦艦大和及び大和を旗艦とした第二艦隊の5隻と戦死した3700人への鎮魂の場です。戦死者数等はwikipediaによります。

  詳しくは坊ノ岬沖海戦 でご覧下さい。

 それにしても、向井さんも直近の現地の観光情報をたっぷりと味わいそれを伝えたくウズウズしているのではないでしょうか、視聴者の一人としてこちらも聴きたくてウズウズしています。それだけでなく向井さんの案内での旅への期待もウズウズの要因の一つです。


北條氏規、小田原合戦と逗子神武寺。

2016-08-17 20:48:33 | 逗子 鎌倉 それぞれ

10月30日の逗子の「神武寺を知ろう」、

(クリックすると拡大されます)

に向けての準備のひとつに小冊子作りがすすんでいます。

   今日の午前中はその集まりで、小冊子の第1稿の検討でした。

   そのなかに北条氏規(うじのり)に関係する部分があり氏規を通じて、逗子の神武寺や沼間地域が「真田丸」から沼田とか強いて言えば上田にも繋げられると思い歴史の記憶として面白いと感じたわけです。

   北条氏規は「真田丸」で高嶋政伸さんが怪演した北条氏政の弟で当主・氏直の叔父にあたる人です。この氏規について『新稿 三浦半島通史』に

【 三浦半島では北条一門の氏規が、三崎を守備していた。氏規から自分の家臣に、(天正)十八年(1590)正月、次のような陣触れを出した。「われわれの被官(家臣)は、皆三崎あるいは小田原城へ移動することになったので、妻子・郎党と兵粮(ひょうろう)と荷物を城中に運び込み、小屋掛をして合戦の準備をせよ」とある。これを読めば、北条方は当初から籠城作戦だったことがわかる。

   ところが、別の面では総力戦でもあった。天正十八年三月、三浦半島逗子(現逗子市内)の人びとに対し、「町人・諸商人・諸細工人に至るまで、あるいは弓・鑓(やり)、あるいは鉄砲・小旗以下の支度を致し」、命令次第に合戦をせよ、その働きにより褒美を取らすと公言した。この地域にこのような命令が出されたのは、あるいは、本当に商人や細工をする人びとが集住していたためかもしれない。】とあります。

さらに神武寺に関して別の箇所ですが、

【 他方、寺社も大きな影響を被った。天正十八年七月七日には、三浦半島北部の神武寺(現逗子市沼間)が合戦のために焼失し、薬師堂のみ残ったという。】とあります。

この氏規という武将は北條家では外交面を担当していたようです。(wikipedia参照)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/北条氏規 

   関連のインターネット情報には氏規は秀吉に会い、秀吉に北條氏政か氏直を上洛させるためには「沼田領土問題の解決が必要」と話し、「真田丸」で前面に出てくる沼田城そこから名胡桃城事件の糸口をつくったとことが史実として紹介されています。

  こうしてみると北條氏規という武将を通じて、逗子・神武寺が沼田・真田丸・上田とkaeruの頭のなかでつながるのは歴史の面白さというべきでしょう。


季語 送り火

2016-08-16 22:08:29 | kaeruの五七五

  歳時記とは何だろうとか季語とは? というようなことがひっかかっていて頭がハッキリしません。「伝えよと歳時記にある原爆忌」からはじまったことなのですが、どうやら根は深いようです。いま問いかけられていることに直接には関係していませんが、原爆忌を季語として否定する論議もあって、余計モヤモヤしてくるのです。

   そこで原爆忌から離れて季語としての送り火に頭を向けます。今日は盆の十六日で送り火でした。午後の盂蘭盆施餓鬼会(これが今日のお寺での行事の正式名称で「うらぼんえせがきえ」というのです)に夫婦で参加しました。そのあと他を廻って通りの裏の下り坂の途中で火が焚かれ初老のご婦人が鉦のような物を叩いていました。

   この辺の旧家で地主さんの家族と見受けました、送り火です。ひと雨降ったあとで次ぎの雨の前にというのでしょう。わが家でもと急ぎ帰宅、玄関前で無事父母の霊を送りました。

  さて季語としての送り火です。岩波文庫の『俳諧歳時記栞草』の「迎へ火」に、

【 七月十三日黄昏に及びて、都鄙(とひ)ともに聖霊を迎ふるの義あり。此時、門前において、必麻柯(をがら)を焚きてこれを迎え火といふ。十六日又これを行ふ、これを送り火といふ。】

とあります。我が家では迎え火を十三日の午前中にします、義姉と甥姪や長男一家の都合と坊さんの読経の前に霊を迎えておきたいからです。

  お寺で妻が挨拶をした若い女性がいました、私も頭を下げましたが誰なのか? あとで妻に聞くと去年亡くなった近所の家の娘さん夫婦と子供さん、残された奥さんは今施設に入っているそうです。家は空き家、実はその隣は亡くなった人の兄にあたる人かなり前に故人に、その老妻も施設に、二軒続いての空き家だと知りました。当然のことながらその家で迎え火送り火が焚かれることはありません。

   我が家の両隣も去年亡くなっていますが、迎え火送り火はないようです、ここは空き家ではありません。各家の習わしの違いもあるのでしょうが、やはり少子化など家族構成の変化が基本にあるのでしょう。そういう世相の変化のなかで盆の諸行事を含めて季語「迎え火送り火」はどうなっていくのでしょう。

さて、原爆忌について耳を傾けたのはこれです、

http://weekly-haiku.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8830.html

内容を支持するとか反対だとかいうことではありません。


八月十五日も……。

2016-08-15 17:31:03 | kaeruの五七五

   忙中閑あり、と言われるくらいですから、昨日のごちゃごちゃの間にも閑があっても不思議ではないでしょう、そこで振り返ってみたらありました。

  午後のひと時「歳時記」の何冊かを開いて「原爆忌」の句を読んでいたのでした。それと俳人宇多喜代子さんの季節の言葉としての「原爆忌」についての思いが心をとらえられていました、こうあります。

【 昭和二十年(1945)八月十五日、広島にウランを用いた最初の原子爆弾が投下され、未曾有の惨害をもたらした。同じく九日には長崎にプルトニウムを用いたものが投下され、ここでもまた多くの死傷者を出した。この両日の犠牲者を慰霊し、反核、世界平和を祈念する行事が、広島、長崎を中心に各地で行われる。一般には「原爆の日」だが、歳時記では「原爆忌」としている。古い歳時記だけでなく、現行歳時記でも記載のないものもあり、立秋が六日と九日を分けることもあるという理由のためか、夏の部に編入したもの、秋の部に入れたものがある。なかには広島は夏、長崎は秋、などとするものなどあるが、「原爆の日」「原爆忌」に限っては、季語の約束事や情緒を味わうという気分で用いるべきでないだろう。その悲惨な体験を語る人たちも少なくなりつつあるいま、肉声のこもった句をみることも稀になった。】

 

八月の句会はメール句会でした、投句した八句のなかに

    歳時記に原爆忌のある国で詠む

がありましたが、主宰から

「いいたい作者の気持ちは十分にわかる一句です。  

   歳時記にある原爆忌    で止めたいですね。」

とありましたので昨日の午後の歳時記読みの時間になったわけです。

他の句も推敲し結局八月の五句としては、下のとおりです。

 

  上五の「伝えよと」は直接には宇多喜代子さんの言葉を読むなかで自分の気持ちのなかでの変化でした。「肉声のこもった句」が稀になるなかで、嘗て肉声の句を詠んだ人々が季語「原爆忌」に託したことを万分の一でも受取れるならば、歳時記を開いた時間が生きてくると思います。 

  今日は八月十五日、季語「終戦記念日」(敗戦忌・終戦の日・敗戦の日・八月十五日)があります。手元の歳時記の解説はこう記しています。

【 八月一五日。昭和二〇年(1945)、日本はポッダム宣言を受諾、無条件降伏をして、第二次世界大戦が終了。戦争に突き進み、多くの犠牲者を出したことを反省し平和への希求を確認する日。追悼の心で過ごす人が多いが、戦争を知らない若者も増えた現実がある。忌日としたのは俳人の志である。】

  ここにも「伝えよと」歳時記に残した多くの故人の志があります

   敗戦日いのちをこめて五七五      三葉子


祭と孫と「真田丸」と、ごちゃごちゃ日。

2016-08-14 23:51:43 | 逗子 鎌倉 それぞれ

  昨夜はなんで遅くまで起きていたのか、寝ようとしたら隣に孫が寝ていて、その隣には孫の父親、我が家の長男が寝ているのです。お盆に来て泊まることになっていたのでした。

  それで今朝、起きたのが9時近く、これは大変!祭の寄付集めの行動開始が9時、朝飯抜きで車を息子に頼みどうやら間に合わせてもらいました。毎年のことですが、同じ団地を歩いて変化がわかります、空き家が増えているし、車置き場が空きになっています。同時に新築も目立ちました。表に出てこない変化の積み重ねが一年間のなかで現れるます。

  そんなこんなのなか、石垣市の高校生の孫が来月学校の物理の部会の勉強会を兼ねた研究旅行で東京にやってくると我が家の婆さん役が言いました。娘からメールが入ったそうです。物理など日頃縁のないことです、会った時少しは話に相槌を打ちたいものだと、それなりに買ってあった中学生用の理科の本を読みだしたりしていましたら、時間が経って「真田丸」。

   タイトルの「応酬」とは「運動法則の第3法則」に通じるのではないかと、孫に話せば笑われるようなことを思いつつ見終わって、せめて「作用・反作用の法則」に例えれば家康側と三成の関係は「作用反作用の関係」だというくらいのことは言ってみたい、と又俄か中学生になって翌日寸前になりました。


後一年、前一年。

2016-08-13 20:29:07 | どこまで続くかこのブログ

    何時ものようにgooからあなたの一年前の「つぶやき」です、が届きました。

この最後に、

人生の最期の時期に己が土になるべき地域へのこだわりをどう深めるか。乳離れとか親離れとか肉体的精神的自立の各段階が呼ばれるように過ぎた日の故郷から終焉の地としての故郷へ移る故郷離れの作業すすめる時期になったようです。来年の「つぶやき」にどう書かれるのか、これからの一年の課題です。

と書かれていますので、どう書いたものかと思案しました。

   故郷ということでは兄の死を通じて「終焉の地」としての故郷ということを考えます。東京生まれの兄が母親の実家のある上田に戦争で疎開してきたのが14歳です。それから71年間外へ出ることはなく上田の土になりました。

  兄の葬儀の喪主は長男が務めましたが、深く感じたのは小池家(私達の実家)が父母の代を含め三代続いたうえでこの地・上田に根をおろしたということです。市内から離れ兄嫁の縁で現在の住居を決め、その縁で寺も決め東京にあった墓を移してもきました。「骨を埋める」と言いますが、墓所を何処にするか決めるということが文字通り骨を埋める地、だということです。

   さて我が身を埋める地は決まっているのですが、問題はその地で「終焉の地」らしい暮らしをしているのか、です。その辺が「これからの一年の課題」だったのでしょうが、こうつぶやいてくると、何やら先送りのようです。

   また来年「どう書かれるのか」、齢80歳を過ぎていますのでもうその先に送る余裕はないでしょう。