Reflections

時のかけらたち

冷たい雨の降る日のコンサートと借りてきたCD(追記あり)・・・ concert on a sudden unseasonable cold day and CDs from library

2019-04-11 23:59:50 | music
4月10日

春なのに各地で大雪。私がいっしょにコンサートに行っている亡き義理の姉の友人は
奥多摩に住んでいるので朝雪がすごかったので最初帰りが心配なのでコンサートに行くのを
やめると言っていたのですが、雨に変わり、無事来ることができました。

スイス・ロマンド管弦楽団
東京文化会館 大ホール

アーティスト
指揮:ジョナサン・ノット
ヴァイオリン:辻彩奈

  

プログラム
メンデルスゾーン:ヴァイオリン協奏曲
マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

アンコール:
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第2番より ”アンダンテ”



またマーラーかと思いましたが、聞いたことがない曲だったのでよかった。
何か世紀末的な、破滅への道を進みそうな少し狂気がかった曲。マーラーは不思議な作曲家です。
大きな金槌みたいなものも出て、打楽器のにぎやかなこと。
前日3時過ぎに寝て睡眠時間が3時間半くらいだったので、まさかマーラーで寝ないかと思ったけど
少し寝そうになりました。山田和樹がスイスロマンドで最近聴いたけれど、印象が少し違いました。
ジョナサン・ノットは名前はよく聞くので何回目かと思いましたが、今回が初めてでした。

辻さんはまだこれからの人で、22歳くらいですが、結構貫禄がありました。いろいろなコンクールで
入賞して脚光を浴びているようです。ヴァイオリン・コンツェルトの代名詞みたいなメンデルスゾーンの
聞き飽きたような曲でも、ときどきすごく新鮮に感じることもあります。ヴァイオリンはNPO法人イエロー
エンジェルより貸与されているJoannes Baptista Guadagnini 1748とのことでとてもいい音色でした。
見事に大役を果たしたと言った感じ。アンコールのバッハはどうしてもヒラリー・ハーンと比較して
しまいます。やっぱりヒラリーは難しい曲を何とも自然に弾いてしまう天才だと思いました。


                  


今日は図書館から借りていたCDを返しに行くので、気に入った曲をMDに取っておきました。
ファビオ・ルイジの指揮で聴いたチャイコフスキーのシンフォニー第5番が聴きたくなって
パッパーノそれ指揮のものを借りて来ていたものと、ラフマニノフのシンフォニー第2番。
アンデルシェフスキーのバッハとIL VOLO。













仕事をしながら、もっとアンデルシェフスキを聴きたくなってYouTubeで探したら、シューマンがあって
聴いてみたら素晴らしくて、胸に突き刺さるようでした。後から調べたら、シューマンが川に入って亡くなる
数か月前の作曲だったことがわかりました。



参考:気ままな生活 アンデルシェフスキ『シューマン/ピアノ作品集』 

アマゾンのカスタマー・レヴューがすごかった。
《アンデルシェフスキーのシューマン《早朝の歌》終曲讃》

 アンデルシェフスキーの演奏は多種多様な流れのリズムをつかみ取って複合させ、また移行させていっている。
霧の流れのリズム、木の葉の細かく震えるリズム、太陽が東の空に近づいてくるリズム、水面のさざ波のリズム、
そして木々の梢から雫の引いてゆくリズム、などである。この多様なリズムの把握が、例えばポリーニの演奏と
まったく違うところだ。ポリーニの演奏の分析はあえてここではすまい。アンデルシェフスキーの演奏は、
革命的に新しい。そしてシューマンは、アンデルシェフスキーにおいてはじめて自曲の正しい演奏者を見出した
ことだろう。シューマンの晩年の楽譜には、アンデルシェフスキーのような自然の細部と密着した様々なリズムを
聞きわける感覚によってはじめて読み取るとのできるデリケートなさまざまなリズムが書き込まれているに違いない。
それらはまだほとんど読み取られていないのだろう。
 (シューマン、op.133)

《懺悔、というよりは悔過》
 東大寺二月堂の修二会の悔過(けか)作法のなかでも五体人と呼ばれるひとりの僧が礼堂の五体板に全身を膝
から打ち付ける五体投地の行は、わたしにとっては、最も激しく、力強い悔過の行為のひとつだ。そのことを、
この行為を近くで体験したひとは、納得してくれるだろう。
 だが、ここでわたしが言いたいのは、もっと違った悔過もあるだろう、ということなのだ。それは耳を澄まし、
感覚を澄まし、感受性の限りを尽くして音を聴こうとする行為のことなのだ。例えばシューマンの晩年の《早朝の歌》
(Gesänge der Frühe)op.133のような、きわめてデリケートで、きわめて難解な曲を聴こうとすること。ピアニスト
はそれを、楽譜と自分のピアノの音との何回もの繰り返しから、曲の隠れた秘密、隠れた音楽を引き出してゆく行為を
おこなうが、その行為のただなかに、他ならぬ悔過のおこないがあるだろう。しかしその隠れた秘密、隠れた一貫性を
引き出しえないとき、ピアニストは解釈をあきらめ、演奏をあきらめることになるだろう。シューマンの晩年の曲は、
このようにきわめて難解な作品群になっている。
 このところある縁があって、アンデルシェフスキー(Anderszewski)の《早朝の歌》の演奏を聴いたが、彼はこの曲の
きわめて深いところまで、きわめて深い秩序にまで達していて、それを聴き取るためにわたしは、感覚と感受性の深みを
呼び覚まし、掘り起こすためにきわめて大きな努力をした。その行為は、わたしには悔過と言えるものだった。それは
それまでの鈍い感受性のまま物事を感じて生きてきたために深くデリケートなものを聞き逃していたという過ちを悔いる
ことだったから。アンデルシャフスキーのこのような達成をこれまで知らず、その感覚の深さに達することができて
いなかったからだ。昨日ようやくその悔過の段階が五段あるとすれば、その三段にまで達することができた。第一曲は
、湿気のある朝まだきの林の中の表情。どこかに小さな清らかな湖があり霧が細やかに流れる。第三曲にはある征服感が
あること。征服する喜びがあるとともに、征服されるものにも征服される喜びがある、そのような征服の達成。馬のギャロップ
のような歩みのなかで、何かが征服されるのだ。第五曲、終曲は、第一曲と相当よく似た表情だが、ここには泥化があり、
清澄な湖あるいは池というよりはむしろ沼で、藻が生え、泥が遊びさまざまな生物が遊ぶ。しかしそれを善しとする微妙な
風に包まれて終わる。
 第二曲、第四曲はまだ聴き取れていないが、アンデルシェフスキーとシューマンがこの曲で描き示そうとしたものの
少なくとも過半は、読み取れたと思う。


ネットで検索したら、このCDが図書館にあることがわかり、さっそく予約を入れておきました。アンデルシェフスキーの
ショパンもついでに予約しました。


April 10  2019   Ueno


追記

昨晩、寝る前にスマホの目覚ましをかけるついでに、アンデルシェフスキの公式HPでスケジュールを確認したらなんと6月に
日本でコンサートがありました。八ヶ岳高原音楽堂には行きたいけど無理だから、すみだの方を朝起きてネットで
申し込みました。それも朝の歌(暁の歌)を演奏するなんて何とタイムリーなんでしょう。

コメント
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