碓井広義ブログ

<メディア文化評論家の時評的日録> 
見たり、読んだり、書いたり、時々考えてみたり・・・

没後15年の命日、実相寺昭雄監督「金科玉条」の言葉

2021年12月01日 | 「ヤフー!ニュース」連載中のコラム

TBS時代の実相寺昭雄監督

 

11月29日は没後15年の命日、

実相寺昭雄監督「金科玉条」の言葉

 
 
実相寺昭雄監督が亡くなったのは15年前、2006年11月29日のことでした。
 
もう15年なのか、まだ15年なのか。
 
たとえば、監督と接してきたメンバーが集まる「実相寺昭雄研究会」の会合では、実相寺昭雄は常に「現在形」で語られます。
 
冥界の監督は「おいおい、いつまでやってんだ」と笑うかもしれませんが、まったく過去の人ではありません。
 
そういう存在を持てたことの幸せを、15年が過ぎた今も感じています。
 
1960年代にTBSで放送された、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」「怪奇大作戦」など、印象深い作品の数々で知られる実相寺監督。
 
長編映画デビュー作「無常」(70年、ロカルノ国際映画祭グランプリ)をはじめ、「帝都物語」などの映画、さらに音楽番組やオペラの演出などでもその才能を発揮しました。
 
ウルトラマンからオペラまでの広がりと奥行き。テレビディレクター、映画監督、オペラ演出家としてはもちろん、小説、絵や書、そして監督が大好きだった鉄道に関しても、すべて一流の仕事を残しています。
 
監督との出会いは、テレビマンユニオンに参加した1981年。それ以来、2006年に監督が亡くなるまでの25年間、様々な形で師事してきました。
 
旅番組「遠くへ行きたい」(日本テレビ系)で監督が演出する回は、プロデューサーとして担当する自分の番組をそっちのけにして、ADを務めました。
 
監督の代わりにロケハンを行い、一緒に神田、鎌倉、気仙沼、そして長崎などへ出かけたロケは、ひたすら楽しかった。
 
今思えば、ロケ自体が、実相寺学校の移動教室でもあったのです。現場でいつも驚かされるのは、創ろうとする映像のイメージが明確であることと、それを実現するための巧みな技術です。
 
また、私がプロデュースした番組では、監督に何度もタイトル文字を書いていただいた。ひと目で監督の書とわかる筆文字。あの独特の字体が好きでした。
 
それから映画「帝都物語」。原作者が、仲人をさせていただいた作家・荒俣宏さんだったこともあり、企画段階から公開まで、いくつもの思い出があります。
 
何より、荒俣さんと実相寺監督、それぞれ自分にとって大切な人物が、一つの作品で出会ったことが嬉しかった。
 
監督の著作はいくつもありますが、命日に読むのにふさわしい(?)のは、1977年に出版された最初の本『闇への憧れ~所詮、死ぬまでの<ヒマツブシ>』でしょう。
 
テレビや映画をめぐる、たくさんのエッセイ・評論を収めたもので、現在は復刊されています。
 
どのページを開いても、鋭くて、どこか少し照れたような、ちょっと韜晦(とうかい)気味の、監督らしい言葉が並んでいます。
 
そして、この本の「あとがき」の、これまた最後に、こんな文章が置かれているのでした・・・。
 
最近、私は二つの言葉を金科玉条としている。ひとつは、たまたまテレビで見たイギリス映画、ピーター・ホール監督『女豹の罠』にあった科白で「男は自分の好きな仕事をしなければなりません。嫌いな仕事なら、金がたくさん入らなければなりません」というもの。
もうひとつは、たまたまひっくり返していた愛読誌『ヤングコミック』の欄外語録にあった黒柳徹子さんの言葉だ。「一度でもコマーシャルをやった人間はえらそうなことを言っちゃいけないというもの。
民放上がりのテレビジョン・ディレクターとしての私の万感は、この二つの言葉に尽きている。もうこれ以上何も言うまい。
 
実相寺昭雄監督、2006年11月29日没、享年69。
 
合掌。