テレビの音がうるさいと怒鳴り合ってた二人、これからが大変と思っていた人達がいました。それが、あれだけ怒ったのに次の日は仲良くソファーで語り合っている人達を見ました。物忘れとは悪いことばかりでは無いと先日知らされました。人生も忘れる事が、このように沢山あるのだとも思いました。
大変難しいのが、何処までこの様な人達の世話をするかと言う事です。女性が座るとすれば、当然椅子を引き座るまで面倒を見るのですが、高齢者によっては自分でやった方が自分の為になると気づきました。多少の不親切が、その方に取って良い方向に向かうと気が回る様になりました。しかし、その見極めも難しいです。目の前の人が車椅子を必死で回していたら、堪らず押してしまいます。
AEDの使い方の講習会がありましたが、その時に人工呼吸の仕方まで習う事になりました。今までは、息をしていない人を見たら助けを呼ぶだけで良かったのですが、救助が来るまでにすることが増えました。バイトでもそこまでやると言う事は、ただ単に仕事が増えただけで無く、その方の生死を決める役目を任されたと言う事です。一生懸命に講習を聞き、積極的に人形に体重を掛けて汗しながら押しました。
それ以来、居住者に中に、もしもと思い、急に人工呼吸が必要と思われる方が数名おられるから、ひやひやしながら部屋に入ると言う有様でした。しかし、10日もすれば慣れ。以前通りになりました。このブログを書いていて、これではいけないと心を引き締めています。
朝昼晩と同じ事を言い、返事が気に入らないと怒鳴ると云う人の隣に座っていて返事をしている91歳の優しいお婆さんがいます。その方は、戦中、北朝鮮に住んでいた方ですが、その逸話を聞こうと思いました。よっぽど辛い事があったのか、それ以上は口を閉ざされました。別の階に、同じく男性で北朝鮮に住んでいたという男性と会いますかと聞き、その男性に話を持って行った所、ケンモホロロに断られました。
先日、違う階の92歳のお婆さんとの話の中で終戦直前に、家財道具をみんな売って家族で東京での戦禍を避けて北朝鮮に移り住んでいたと聞きました。朝鮮がそんな風に、戦前の人が思われていたのかと初めて知りました。
しかし終戦後2年間も現地に抑留されて、北と南の境界線である38度線、川を苦労して歩いて渡って逃げて来たと言う話を聞きました。「どうしてその話を今までしなかったのですか」と聞くと「言う話では無い」と言われました。でも、同じ北朝鮮にいた人に会う事には前向きでした。
お節介と知りながら、又、2人が会う事をアレンジしなくてはと考えています。
大変難しいのが、何処までこの様な人達の世話をするかと言う事です。女性が座るとすれば、当然椅子を引き座るまで面倒を見るのですが、高齢者によっては自分でやった方が自分の為になると気づきました。多少の不親切が、その方に取って良い方向に向かうと気が回る様になりました。しかし、その見極めも難しいです。目の前の人が車椅子を必死で回していたら、堪らず押してしまいます。
AEDの使い方の講習会がありましたが、その時に人工呼吸の仕方まで習う事になりました。今までは、息をしていない人を見たら助けを呼ぶだけで良かったのですが、救助が来るまでにすることが増えました。バイトでもそこまでやると言う事は、ただ単に仕事が増えただけで無く、その方の生死を決める役目を任されたと言う事です。一生懸命に講習を聞き、積極的に人形に体重を掛けて汗しながら押しました。
それ以来、居住者に中に、もしもと思い、急に人工呼吸が必要と思われる方が数名おられるから、ひやひやしながら部屋に入ると言う有様でした。しかし、10日もすれば慣れ。以前通りになりました。このブログを書いていて、これではいけないと心を引き締めています。
朝昼晩と同じ事を言い、返事が気に入らないと怒鳴ると云う人の隣に座っていて返事をしている91歳の優しいお婆さんがいます。その方は、戦中、北朝鮮に住んでいた方ですが、その逸話を聞こうと思いました。よっぽど辛い事があったのか、それ以上は口を閉ざされました。別の階に、同じく男性で北朝鮮に住んでいたという男性と会いますかと聞き、その男性に話を持って行った所、ケンモホロロに断られました。
先日、違う階の92歳のお婆さんとの話の中で終戦直前に、家財道具をみんな売って家族で東京での戦禍を避けて北朝鮮に移り住んでいたと聞きました。朝鮮がそんな風に、戦前の人が思われていたのかと初めて知りました。
しかし終戦後2年間も現地に抑留されて、北と南の境界線である38度線、川を苦労して歩いて渡って逃げて来たと言う話を聞きました。「どうしてその話を今までしなかったのですか」と聞くと「言う話では無い」と言われました。でも、同じ北朝鮮にいた人に会う事には前向きでした。
お節介と知りながら、又、2人が会う事をアレンジしなくてはと考えています。