旅、思いで思い出し           何も知らずに旅にでた!

昔ズート昔、旅をした。何も知らない私が、若かった,若いだけだった!
半世紀前の事....

403 出会い

2015-02-21 04:48:09 | 思い出日記
 マンションで90歳の人が階段を一人で登って歩くのを見て凄いなと思っていました。でも、世の中にはまだまだ驚かされる人がいました。

 91歳の産婆さんをテレビを見た人もいると思います。一晩寝ずに子を取り上げて、次の日に妊婦であった人の為に買い物まで自分で車を運転して行っていました。家で子を産んでいる時に、途中で産婆さんが倒れたらと、そのまさかの方が心配でした。産婆さんも凄かったけれど、妊婦のその信頼感に感動しました。自分のお母さん、お婆さんと3代とも取り上げてもらったそうです。

 そのような産婆さんが後二人、たしか87歳と78歳の産婆さんがいるのにも驚かされました。91歳がいる為、普通なら一番若い78歳にスッポットあてるはずなのに、78歳まだ若いという事でしょう。地元では3人産婆でサンババと読んでいるそうです。病院で産むのが当然の時に、昔ながら自宅で産んでいる人にも感動しました。まだまだ感動できるのは、私もまだ若いです。

その人たちと比べると、今介護している方は大事にされ過ぎていると思いました。朝、体温、血圧を測り、朝食時に呼びに来られて 朝ご飯。これが幸せかと悩んでばかりいます。

 そのような中で、先の産婆さんと同じ91歳の方がおられます。女学校の時に終戦直後、朝鮮からリック一つを背負って引き揚げて来て親戚に頼ったと話されました。朝、3-4分ほど血圧と体温を計る時に会話するだけですが、上品な方で、もっと話を聞きたくなりました。そこで、その話を書き綴って私たちに残されたら、メモでもいいですからと勧めました。

 その時の事は話したく無い、長生きし過ぎたとおっしゃられました。軽々しく聞きましが、よく考えると悲惨で惨めな事だったと想像します。その事を後世の人たちに伝えるべきだと思いましたが、何も言えませんでした。今はただ、「おはようございます。今日は朝は、寒かったです」と挨拶するだけです。
 
 同じく92歳の方が、2階におられます。その方は、結婚して大阪に来るまで京都の三条麩屋町に住んでいて、何と私と同じ二条中学校、その当時は女子学校に行っておられたというではありませんか。その時迄、二条中学が戦前は女学校とは全く知りませんでした。
 初めの時は、血圧体温で一生懸命で気付きませんでしたが、部屋に京都の絵が飾ってあったのでした。話をしていく内に話が盛り上がって「学校に等身大の女性の日本画が何枚も飾ってあるのをご存知無いですか?」と聞きました。
 半世紀以上も前、壁の上の方に朽ちるがままに無造作に掛けてあったの等身大の日本画の女性の数々、どうしてか不思議に頭に残っていたのでした。女学校なら、謎解きはできたと思ったけれで、ご存知ありませんでした。

 京都人なら誰でも知っている通り名の歌を二人で「まるたけえびすにおしおいけ...」色々な出会いがあって、又、違った楽しみが増えました。
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