内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

外国語教育は演繹的であるべきか帰納的であるべきか ― 言語教育の政治学

2017-05-05 21:51:23 | 哲学

 拙ブログの本日のお題は、まったく出し抜けで、しかも問題を唐突な仕方で二者択一的に提示しているので、それだけですぐに反発を覚えられた方もいらっしゃることでしょう。
 あえてこのように提示された問題の背後には、しかし、物事の生成の論理とはどのようなものか、という、より根本的な問題が横たわっているとまず申し上げておきたく存じます。
 その問題の所在をよりよく理解していただくためには、あらかじめ説明しておかなくてはならないことも少なくないのですが、それらをすべて省略して、しかも誤解は覚悟の上で、私なりの結論をいきなり申し上げると、以下のようになります。
 どちか一方を排他的に選ばなくてはならないかのように問題を提示することは、言語教育上はそもそも間違った問題の立て方だということは認めた上のことですが、それでも、演繹的学習法は帝国主義的であり、帰納的学習法は民主的である、とあえて挑発的に申し上げます。言い換えると、前者は、間違えを許容せず、間違った者を矯正することを「国是」とする「デスポティズム」であるのに対して、後者は、人はそもそも間違えるものであり、まさにそれだからこそ、漸進的な相互理解の規則は実際の運用の中に徐々に見出されていく、という「オプティミズム」に基いています。
 このような主張を支える論拠については、言語教育法上のデータに基づいた「科学的な」進歩ということももちろん考慮に入れなくてはならないのですが、それはまた別の機会に話題にすることにしましょう。
 今日のところは、言語教育もまた、思想的・政治的な賭けと無縁ではないのだ、ということを申し上げたかったのです。