昨日の記事でスタロバンスキーに事寄せて「啓蒙の哲学」に若干言及しました。ヨーロッパ十八世紀の啓蒙主義については、邦語文献も多数あり、啓蒙主義についての欧米の研究書・概説書・入門書等の邦訳も少なからずあるようですね。その中で古典的名著として夙に知られているのがエルンスト・カッシーラーの『啓蒙主義の哲学』(1932年)です。中野好之による邦訳(ちくま学芸文庫、2003年、上下二巻、1997年に一巻本として刊行されたの単行本の全面的改訳)があります。私は同訳を持っていないし見たこともありませんが、信頼できる訳のようですね。自分の手元にあるのは、1966年刊行の仏訳 La philosophie des lumières (Fayard)。
本書の第四章「宗教の理念」第二節「寛容の理念と「自然宗教」の基礎づけ」の冒頭に、昨日の記事で引用したスタロバンスキーの見解に呼応するような科学の自律性に関する記述を読むことができます。以下に仏訳からその内容を摘録します。
真理の探究において私たちが出会う最も重大な障害は、私たちの知の不十分さではない。そのときそとき私たちがその中で考えている知の限界は、その限界に私たちが自覚的である限り、何ら危険なものではない。科学は自分が陥っていた誤りを己自身の進歩によって己自身から正すことができる。科学が私たちを巻き込むこともある誤りは、私たちが科学にそれ自身の展開を委ねるやいなや、自ずと排除されていく。
そのような誤りよりもはるかに重大なのは、知の不十分さから生れるのではなく、誤った探究方針によってもたらされる逸脱である。最も恐れるべきなのは、不足ではなくて、倒錯である。この倒錯とは、科学の本当の基準を転倒させ歪曲することである。そのような倒錯は、私たちが到達すべき目標を予見できていると思い込むやいなや発生する。
科学の敵は、懐疑でなく、教条(ドグマ)である。教条は、ただの単純な無知ではなく、自らを真理と見なす無知、自らを真理として強制してくる無知である。私たちの知の働きを本当に脅かすのは、このような真理の仮面を被った硬直した教条の危険なのである。
なぜなら、その場合、もはやそれは単なる誤りではなく、欺瞞であり、うっかり犯した思い違いではなく、精神が自らの過ちゆえに陥ったごまかしであり、一旦そうなると、精神はそのごまかしの深みに自らはまり込んでいくばかりだからである。
自らの無知を恥じることもなく、一方的に己の主張を相手に押し付け、その相手に対しては自分に都合のいいように「忖度」してくれるよう要求するような人間が宰相であるような国は、この意味で、きわめて危険な国家であると言わざるを得ないのではないでしょうか。