二十歳前後という遠い昔の話で記憶も不確かになってしまいましたが、林達夫の名前と文章を知ったのは、丸谷才一『文章読本』の中でのことだったと思います。今その本が手元にないので、曖昧な記憶だけを頼りに言うのですが、丸谷才一は、同書の中で、林達夫の文章を激賞して、明度の高いレンズを通して対象を見ると肉眼で見るよりもよく見えるときのような、その文章を読むとこちらの頭がよくなったのかと錯覚するほど明晰・達意の文章だといういうような趣旨のことを書いていたのではなかったでしょうか。
丸谷才一の評言に惹かれて、林達夫を読むようになり、まずは当時中公文庫で入手できた『共産主義的人間』『歴史の暮れ方』『思想の運命』『文芸復興』をすべて読み、久野収との対談『思想のドラマトゥルギー』(平凡社選書)に知的興奮を覚え、さらには平凡社から刊行された『林達夫著作集』(全六巻)も購入して、一時期繰り返し読んだものでした。しかし、それらの本は、フランス留学前に、つまり二十年以上前に、すべて古本屋に売り払い、今私の手元にある林達夫の本は、講談社学術文庫版『林達夫芸術論集』(高橋英夫編、2009年)の一冊のみです(同書の冒頭に収められた「思想の文学的形態」については、二〇一五年五月十六日の記事とその翌日の記事とで拙ブログでも取り上げたことがあります)。
さて、今日の記事で話題にしたいのは、林達夫の代表的大文章として言及されることが多い「精神史 ―一つの方法序説―」(初出は、『岩波哲学講座4 歴史の哲学』一九六九年)です。この文章を久しぶりに思い出したのは、昨日の記事で話題にした時枝誠記の『国語学への道』の「はしがき」を読んだときのことでした。他者に紹介するために整理された方法論ではなく、自分の学問の方法がが実行されている現場でのあれこれの作業を生き生きと語った文章として、林の文章を思い出したのです。
以下、何箇所か「精神史」から摘録しておきたく思います。
まずは、林がこの文章を書くきっかけの一つとなった「小事件」について語っているところです。その小事件とは、アンドレ・シャステルの「バロックと死」という論文のある一節に林が「寝耳に水のような衝撃を受けた」ことです。シャステルのその論文には、ルーヴル美術館所蔵のレオナルド・ダ・ヴィンチの『聖母アンナ母子像』に言及して、聖母アンナの両脚のあいだの赤褐色の小石にまじって、右足の親指近く、血が滲んだみたいな、奇妙な小さな切れっぱしとももつともつかぬものが散見されるが、これを詳細に観察すると、それは正しく血管がすいてみえる胎盤の切れっぱしと、切断された小さな胎児に該当するという指摘があります。
わたくしはこの十四ページに及ぶ論文の中のこのたったわずか六行ばかりの記述に寝耳に水のような衝撃を受けた。わたくしのこの画に対して抱きつづけてきたイメージがこれによって形無しにされたからである。わたくしは新規まき直しに、この画は一体何を語ろうとしているのかを考えてみないわけにはいかなかった。わたくしのこの小さな文章は、はからずもこの小事件が喚び起こした波紋の記録のようなものである。(『林達夫芸術論集』218頁)
その記録はどんな文章になるのでしょうか。
わたくしの記すのは、人の書いた「精神史」と名のつく「歴史記述」の一つのジャンルというか、パターンというか、それについての省察なんかではない。その研究の現場における、あれやこれやの、てんやわんやの操作のことである。(同頁)
したがって、この文章は、その操作が一通り済んだ後に事後的に整理された報告書とはまったく異なっていますし、いわゆる学術論文とも著しく異なっています。そのような文章になるのは、しかし、林達夫自身にとって、まさに学問における方法的要請なのです。この点、時枝誠記の『国語学への道』の「はしがき」に読むことができる学問の方法意識と重なるところがあると私は思うのです。
断るまでもないと思うが、わたくしはこの小文において整理し終わった考えを述べようとしているのではなく、いわば考えを整理の方へ近づける過程―そこでは脇道へそれたり、後戻りしたり、場合によれば前言取消しを余儀なくされたりすることが、むしろ常態なのだ―を、できるだけ忠実に語ろうとしているのである。だから、普通ならば n.g. にしてしまうようなところも敢えて残しておく。「方法」を語るには、それこそほかに方法はないと思うからだ。(224頁)
最後に、この文章の結語に当たる段落を引いておきましょう。
わたくしがこの文章でやったことは、結果的にはまさにこのフランカステルのいう、現実的なものと想像的なもののレオナルド的弁証法の一つの局部的究明であり、それはまた魅力ある彼のあいまいなものと未完成なものとへの、追いつ追われつの一つの小さいが少しばかり緊張した追跡であったように思われる。そして最後に、もう一つだけ言わせて貰えば、わたくしの心には、その間、精神史はどんな立場のものであろうが、あたかも歴史がその一部門としての考古学を必要としているように、名前は如何様でもよいが、いわば「精神のアルケオロジー」の如きものを非常に必要としているという何か飢渇感のようなものが附き纏って離れなかったのである。その限りにおいて、これはわたくし流の、自らに対してもこれは言えることだが、一つの「学問のすすめ」になっているかもしれない。(263-264頁)