内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「自伝的研究法」あるいは方法序説としての学問的自叙伝 ― 時枝誠記『国語学への道』の「はしがき」から

2017-05-20 14:42:52 | 読游摘録

 時枝誠記の『国語学への道』は昭和三十二年に三省堂から刊行されました。私の手元にはその初版があります。今年の三月にネットの「日本の古本屋」で見つけて購入し、東京の家族から送ってもらって届いたのがつい三日前のことです。六十年前の本ですから、天や小口に茶色い斑点状の染みがいくらかあるのは仕方ありませんが、本文はきれいな良本です。届いてすぐにパラパラと頁をめくっていたら、「謹呈」と印刷され、その下におそらく時枝自身の直筆で「時枝誠記」と万年筆で署名された栞が挟まれていることに気づきました。本当に本人の直筆なのか確かめようがありませんが、ハネのないすっきりとバランスの取れた字体です。
 本書が昭和二十二年に同じく三省堂から刊行された『国語研究法』を改題・補訂したものであることが「はしがき」からわかります。当初の企画において出版社が時枝に期待していたのは、「国語研究の入門書に相応しい研究法」だったようです。「ところが、出来あがつたものは、いはゆる研究法とは、およそ、かけ離れた、私の学問的な自叙伝ともいふべきものになつてしまつた」と同じく「はしがき」にあります。国語学への研究法を書くのに、これ以外の方法が思い当たらなかったというのがその理由だとその直後に記されていますが、一人の学者の学問の形成を考える上で、とても示唆な一言だと私は思います。
 「はしがき」で目に止まった箇所をさらに二箇所ここに摘録しておきたく思います。

人が右の道を進んだからとて、私がその道を選ばなければならない強制は少しもない。ここに、私には、私なりの道が生まれて来たのである。私には、自分といふものを離れて、学問への普遍妥当の道といふもは考へられない。そこへ行くと、学問も一つの創作であるといふ感じがする。

学問が成立する根源は、何といっても学問を成立させる学者、則ち人間にあると知るに及んで、本書のやうなものも、存在する意味があるであらうと考へるやうになつた。

 本書には、その旧版である『国語研究法』のはしがきも収められています。そこからも最後の数行を引用します。

私は、他の学者の論文や著書を読んで、穏健中正な見解を得ることに、まことに不得手である。私は、私の云はうとすることを、他の学説におかまいなしに、単刀直入に披瀝することしか出来ない。下手な集大成によつて、読者をあやまるよりも、卒直に私自身についてのみ語る方が無難であると考へたのである。このやうな自伝的研究法の体裁をとつたからとて、私は、このやうな研究法を、世の研究者達に強ひようとする意志は毛頭ない。ただ、本書が、いはばよそゆきの私の既刊の著書に対する批判の足場となるならば、望外の幸と考へてゐるのである。