スタロバンスキーは1939年から1942年までの三年間、ジュネーヴ大学でギリシャ・ラテン古典文学を学びます。そして、文学士号を取得してすぐに同大医学部に登録し、1945年には医学部を卒業します。その後、1958年まで、医学(主に精神医学)と文学とのいわば「二足の草鞋」を履くことになります。
この経歴からも推測できるように、スタロバンスキーは、文学を捨てて医学者になったのではなく、文学と医学とはスタロバンスキーの精神活動の中で分かちがたく結びついています。両者のこの不可分かつ緊密な相互作用的関係は、ジュネーヴ大学の思想史講座の教授に任命されて医学者としての活動は止めた1958年後も変わりません。
ただ、職業として医学者の道を最初に選択したのは、医者のほうが文学教師より遙かに社会的に独立した生活を社会体制の如何にかかわらず送ることができるというスタロバンスキーの両親(ともにポーランドからの移民として若き学生時代にジュネーヴに移住して来て医者になります)の「実際的な」考え方に影響されてのことでもあることをスタロバンスキーはジェラール・マセとの対談で認めています。
しかし、他方、スタロバンスキーにおいて文学と医学と繋がりを支えているのは哲学だということも同対談で次のように述べています。
La philosophie avait fait partie de mes disciplines littéraires, et les études de médecine me paraissaient un prolongement de la philosophie, comme ce fut le cas pour mon père (op. cit., p. 14).
哲学は文学研究の一部をなしており、医学の勉強は哲学の延長のようにスタロバンスキーには思えたのです。そして、それは父親の場合も同様だったというのです。
スタロバンスキーにおける文学と医学との関係を考える上で大切だと思われるもう一つの要素は、その学生時代、つまり1930年代の終わりから1940年代にかけて、少なくともジュネーブ大学においては、文学と医学とはまったく縁遠い二つの分野とは考えられていなかったということです。
Les trois années de Lettres classiques qui m’avaient familiarisé avec l’antiquité grecque et latine m’avaient aussi donné l’occasion de lire des textes sur la pensée mythique (Freud et Rank, les écrivains du Collège de Sociologie). La transition n’était pas aussi abrupte qu’aujourd’hui (ibid., p. 15).