内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

La parole est moitié à celuy qui parle... あるいはモンテーニュ『エセー』における〈声〉の分有(承前)

2017-05-08 09:24:20 | 読游摘録

 昨日の記事の最後に引用した箇所の後、モンテーニュは、自分が従僕を厳しく荒々しい調子で叱責する場合を具体例として挙げつつ、問題を聞き手の側に移行させます。

Quand je mastine mon laquay d’un ton aigre et poignant, il seroit bon qu’il vint à me dire : Mon maistre parlez plus doux, je vous oys bien (Les Essais, op. cit., p. 1088).

 ここをどう解釈したらいいのかが私にはよくわからないのです。 叱責に対して従僕が「ご主人、もっと穏やかにお話ください。よく聞こえていますから」などと反応することになれば、それはとんでもないことで、その従僕はさらにひどい目にあうことにもなろう、ということでしょうか。
 原文の « il seroit bon » について La Pochothèque 版には脚注が付されており、 « il ferait beau voir » と言い換えられています。 « Il ferait beau voir que + subj. » で、「((皮肉に)) …するなんて見物だろう;とんでもないことだ,許しがたい」(『小学館ロベール仏和大辞典』)という意味です。Gallimard の « Quarto » 叢書の André Lanly による現代フランス語版『エセー』では、当該箇所は « il serait plaisant » となっていて、これもやはり皮肉に「笑うべき、こっけいな、ばかばかしい」(同辞典)という意味です。いずれの場合も、主人の意図をまったく理解していない従僕の反応についての評言ということになります。
 ところが、その直後のクインティリアヌス『弁論家の教育』からのラテン語での引用 « Est quædam vox ad auditùm accommodata, non magnitudine, sed proprietate » は、「聴覚に適した声というものがあり、それはそのボリュームによってではなく、その質によってである」という意味です。そして、このラテン語引用の直後に昨日の記事で『エセー』からまず引用した 一文 « La parole est moitié à celuy qui parle, moitié à celuy qui l’escoute » が来るのです。
 従僕の「不適切な」反応を所与として、この羅仏二文を合わせて読めば、主人としての私の声の調子が適切でなかったから、こちらの意図に反した反応が従僕から返ってきてしまったのであり、言葉はそれを発する側だけで意味が完結するのではなく、その言葉を聞き手がどう受け止めるかによって意味が変化してしまう、つまり、言葉は話し手と聞き手とにそれぞれ半分づつ属している、ということになりはしないでしょうか。
 しかし、話はそこで終わりではありません。この羅仏二文の後、« Cettuy-cy se doibt preparer à la recevoir selon le branle qu’elle prend. » とあって、聞く側が相手によって発された言葉の動きにしたがってそれを受け止めるよう心構えをしなくてはならない、と、再び聞く側の問題になっているように読めます。しかし、聞く側に一方的に問題が投げ返されているのではないことは、その直後のポーム(十一世紀から行われていたテニスの原形とされる球技)の喩えを読むとわかります。

Comme entre ceux qui jouent à la paume, celuy qui soustient se desmarche et s’apreste selon qu’il voit remuer celuy qui luy jette le coup et selon la forme du coup (ibid.).

 この文の出だしに「ポームをする人たちの間でのように」とあり、その球技を行う両者の間の関係がここでの問題だということがわかります。その後の説明は、球の受け手の観点に立ち、球を打ってくる相手の動きと打ち方に応じて動かなければならないということです。しかし、その受け手がただ球を受け止めるのではなく、それを打ち返すことではじめてゲームは成り立つのですから、打ち手と受け手との関係はたえず目まぐるしく相互に入れ替わらなくてはなりません。
 つまり、言葉は、一回きりの一方通行的な発話でその意味が伝わるものではなく、それ自体に意味が内包されている独立の実体でもなく、まさにテニスでのボールのやり取りのように、相手の〈声〉に応じて聴き手が適切に「打ち返す」ときにはじめてその意味が生成する、それはたとえ主人と従僕との間であっても同様である、これがこの一節でモンテーニュが言いたかったことなのでしょうか。