今日の記事のタイトルの仏語部分は、スイスの出版社 La Dogana から2009年に出版されたスタロバンスキーとジェラール・マセ(Gérard Macé)の対談のタイトルです(Jean Starobinski, La parole est moitié à celuy qui parle..., La Dogana / France Culture, 2009)。対談そのものは1999年にジュネーブのスタロバンスキーの自宅で三十分づつ五回に渡って録音され、France Culture の À voix nue というラジオ番組で同年に放送されました。その後録音から起こした原稿に両者がそれぞれ手を入れて、対談の「書かれたヴァージョン」として、実際の対談から十年後に出版されたのが本書です。
対談本文は九十頁足らずの薄い本ですが、対談内容は実に豊かで、それについては明後日以降の記事で少しずつ紹介していくことにします。それに先立ち、今日と明日の記事では、本書のタイトルについて少しコメントしておきたいと思います。
対談のタイトルは、モンテーニュの『エセー』第三巻第十三章「経験について」(« De l’expérience »)の一節に由来します。相手にこちらの言いたいことを伝えるのに適切な声の調子について考察している箇所から取られています。本書は『エセー』の当該の一文の前半に省略符「...」を付してタイトルとしていますが、『エセー』の原文(単語の綴りはモンテーニュの時代のまま)は以下の通りです。
La parole est moitié à celuy qui parle, moitié à celuy qui l’escoute.
Les Essais, Édition Villey-Saulnier, PUF, « Quadrige Grands textes », 2004, p. 1088.
「言葉は、半分はそれを話す者のものだが、半分はそれを聴く者のものだ」(« La parole est moitié à celui qui parle, moitié à celui qui écoute »)ということです。しかし、『エセー』において引用文の直前の箇所で問題になっているのはむしろ、話し手の意図がよく伝わる声とはどのような声か、ということです。声の調子やイントネーションが話し手の言いたいことを表現しているのだから、話し手はそれらを場面に応じて適切に制御できなくてはならないというのがそこでの主張です。
Le ton et mouvment de la voix a quelque expression et signification, de mon sens ; c’est à moy à le conduire pour me représenter (ibid.).
続きの二文を読んでみましょう。
Il y a voix pour instruire, voix pour flater, ou pour tancer. Je veux que ma voix, non seulement arrivé à luy, mais à l’avanture qu’elle le frape et qu’elle le perse (ibid.).
それぞれの場面に相応しい声(発声の仕方)があり、その声が単に聞き手に届くだけでなく、聞き手の心を打つ或いは突き刺すことを望むということは私たちにもあることですよね。ここまでは私にもわかります。
ところが、その次の箇所が私にはうまく読み解けないのです。この問題については明日の記事で取り上げます。