訳語について一言。Creative illness という英語に対して「創造の病い」という訳語を中井久夫はあてている。実は、ちょっとそれに違和感を私は覚える。なぜなら、ただこの訳語だけをいきなり見ると、創造することの病い、つまり、創造に伴う病い、という意味にも取れなくもないからである。
仏訳は maladie créatrice となっている。どうして「創造的病い」と訳さなかったのだろう。私にはそのほうが通りがいいと思えるのだが。例えば、ベルクソンの L’évolution créatrice は『創造的進化』と訳されていて、それに異を唱える人はいないようだし。もし『創造の進化』などとしたら、それこそ誤解の種にしかならないであろう。
確かに、昨日の記事の引用を読んだだけでも、誤解の余地はない、と言えるかもしれない。それにこの訳を採用した理由が、日本語版『無意識の発見』のどこかにちゃんと説明されているのかもしれない。ただ、ちょっと気になったので、つまらないことけれど、ここに記しておく。
さて、「創造の病い」という言葉が『無意識の発見』に最初に出てくるのは、力動精神医学の歴史を辿る前の予備的考察として、原始共同体における治療師の役割・地位・養成・継承等が記述されている箇所の中である。
一般に、原始共同体で治療師がそれとして他の成員たちから承認されるためには、長く困難な修行期間を経なくてはならない。多くの場合、その期間中に「加入儀礼の病い maladie initiatique」を経験しなくてはならない。その経験の仕方は様々で、薬物・アルコールを使う場合、催眠術を使う場合、あるいは「真正の」精神疾患を経る場合などがある。
この第三の場合について、エランベルジェは、その病いが一般の精神疾患と異なっているのは、次のような点にあると説明する。
修行中に発症したこの病いはシャーマニックな召命から発生したのであり、この疾病期間、修行中の病者は他のシャーマンたちの職業的指導・監視下に置かれている。病いが「癒えた」とき、修行は終わり、病者はシャーマンになったと宣言される。
この「加入儀礼の病い」を「創造の病い」というより広いカテゴリーに含めることができるだろうとエランベルジェは言う。そして、ある種の神秘家、詩人、哲学者たちの経験もこのカテゴリーに入るだろうという。
病いの経験とそれからの治癒が元の状態への回復ではなく、新しいより豊かな世界経験への通過儀礼になっているとき、その病いは「創造の病い」である、ということであろう。