神秘経験の主体とはいったい何なのか。この問題を心理学の問題に還元してしまったり、心の哲学の問題にすり替えてしまうことなく問うことは、神秘経験に固有の合理性の有無を問うことと同じく、容易ではない。
神秘経験は、一般に、主体が一個の考える主体として「主体的に」獲得するものではない。神秘経験において、主体の役割は、むしろ何かがそこにそのまま立ち現われてくるスクリーンあるいはフィルターの機能にまで縮減されてしまうことが多い。
そのときそこに姿を現わすのは、様々な心的機能に先立つ魂の頂点、あるいは、合一体験の単純きわまりない基底そのものである。神秘家たちの中には、神性の深淵の裡に、あるいは、神性の底なる砂漠の内に、魂は没入してしまうと考える。このような経験において、一切の限定と様態が否定され、最深の現実と無との同一性が顕現すると考えられる。
しかし、そのような経験において起こっていることは、魂の底と神性の底なき底との単純な同一化ではない。もしそうならばそれは経験でさえありえない。魂の底においてこそ、神性の底なき底はそれとして把握される。その限りで、魂の底と神性の底なき底との間には還元不可能な差異がなくてはならない。
だが、たとえそうであるとしても、別の問題が残る。魂が神性に没入するとはどのようなことなのか、という問題である。それは観想なのか。神秘的合一なのか。観想的合一なのか。
この問題と併行して問われなくてはならないのは、主体とは一つの幻想に過ぎないのか、という問いである。経験の主体と思われるものは、表層に形成される虚像に過ぎないのか。それとも、その経験の主体に形而上学的存在を認めることができるのか。