内的自己対話-川の畔のささめごと

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神秘経験における神へのあまりの接近は無神論の危険を孕んでいるか

2018-07-17 17:11:12 | 哲学

 神秘経験による認識にもそれ固有の整合性があることを認めさせるのは容易なことではない。なぜなら、神秘経験においてしばしば見られる相矛盾した言説は、その論理的整合性を疑わせるからである。しかも、そのような疑いは、哲学者たちによって理論的レベルで提出されるだけではない。キリスト教信者たちの多くもまた、同じような疑義を神秘経験に対して懐いている。それは、神秘経験とキリスト教信仰とを峻別することがキリスト教からプラトニズムを排除することになると考えてのことである。
 キリスト教世界で神秘経験の排除において徹底した主張をした神学者の一人が弁証法神学のカール・バルトである。バルトが特に批判するのは、神秘経験における神との過度の近さである。それはほとんど無神論であるとまで言う。
 しかし、フレデリック・ネフによれば、神秘経験に他性の否定を見るバルトの立場は行き過ぎである。確かに、無神論的神秘経験はある。しかし、すべての神秘経験が無神論であるわけでもなく、ニヒリズムに陥るわけでもない。
 プロテスタント神学に見られるこうした反神秘主義は、より一般的には、古代ギリシアの形而上学への批判をその背景としている。ネフが引用しているプリンストン大学哲学教授 Mark Johnston の Surviving Death, Princeton University Press, 2010, (Second Edition, 2013) によれば、そのような「切除」は、しかし、その施術後に患者が生き残れないような手術のようなものだ。
 私にはこれもまた言い過ぎだと思われるが、キリスト教信仰における神秘経験による認識の合理性と整合性という問題に関わる諸論点を明確化するためには有効だろう。
 ついでだが、出版を急いだせいなのか、ネフの La connaissance mystique には、誤植・脱字・誤記がかなり目立つ。それに、出典・参考文献の表記も不親切かつ不正確なところが少なからずある。とても瑕瑾と言って済ませられるレベルではない。大変注目すべき内容の著作だけに惜しまれる。