内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ある定年退官教授への感謝の言葉

2018-07-05 23:59:59 | 雑感

 今日は、日本学科に三十二年間勤続した教授の定年退官を祝す昼食会が市中のレストランであり、その後、学科教員室で教授への感謝と祝福の徴として花束とワインとスカーフを学科の教員一同からとして贈った。
 現在の学科の基礎を築いたのは彼女であり、前学科長と前々学科長を彼らの学生時代から育てたのも彼女だった。挨拶の言葉の中で、「この学科は自分が育てた子供のようだ」と言っていたが、まさにその通りだろう。
 私が日本学科を初めて訪れたのは、ストラスブール大学哲学部博士課程の学生だったちょうど二十年前のことだった。その年、サバティカル・イヤーをストラスブールで過ごしに来られたデカルト哲学をご専門とされる先生が日本学科に挨拶に行くのに同行した。そのとき私たちを迎えてくれたのが当時学科長だった教授と数年前に退官した教授の二人だった。二人ともまだ准教授だった。
 当時、学科の専任はこの二人だけ。それと三人の契約講師がスタッフ。まだ修士課程も博士課程もなく、学士課程のみ。学生は三学年合わせて八十名程度。三年生は数人しかいなかった。
 その年、学科では、新しい語学講師を募集しているところだった。私が日本で日本古典文学を学部で勉強したことがあることを知ると、二人は顔を見合わせ、何か眼で合図し合ってから、私にそのポストに応募してみないかと勧められた。
 日本でも大学では教えた経験がなかった当時の私は、自分に務まるかどうかまったく自信がなかったが、応募はしてみることにした。結果、最終面接での模擬授業もなんとか切り抜け、採用された。
 それから二年間、担当授業以外にもいろいろと仕事を任され、右も左もわからなかった私は四苦八苦したが、おかげで多くのことを学んだ。教師としての訓練を受けたのはまさにこの日本学科でだった。
 それに、博士論文のテーマ変更も学科の教員として参加した国際大会での発表がきっかけだった。授業の準備に忙殺され、博士論文の作成に本格的かつ集中的に取り組むのはパリに移ってからだったが、日本学科での経験がなければ、おそらく博士論文を完成させることができずに、帰国していただろう。
 この二年間の講師時代、教師として私を育て、パリに移るときもそれを後押ししてくれ、その後、私がパリ近郊の大学で准教授のポストを得てからも、ストラスブールの准教授のポストの外部審査員として呼んでくれたりと、教授は常に変わらぬ信頼を寄せてくれた。
 私がストラスブールのポストに応募したときは、教授が審査委員長だった。私のストラスブールへの「帰還」をとても喜んでくれた。私もここへ帰ってくることが年来の願望であった。
 教授が基礎を据え、発展させた日本学科は、私にとって「エコール・ド・ストラスブール」とでも呼ぶべき学び舎であり、教授退官までの最後の四年間をそこで同僚として一緒に過ごすことができたのはこの上ない幸いであった。
 私自身は、まことに頼りない学科長であり、同僚たちの助けがなければ何もできないが、すべての教員が献身的に働いてくれるこの学科でこうして今仕事をすることができているのは、まちがいなく教授のおかげである。
 ここに衷心よりの感謝の気持ちを表すとともに、これからの悠々たる生活を心より祈念します。