昨日付けの記事で引用した箇所に見られる émergence 概念の導入の仕方に対して次のような反論があるだろうとフレデリック・ネフは想定する。
On peut nous reprocher une incohérence : l’émergence ne serait-elle pas un mode de la discontinuité, que nous avons précisément rejetée ? Si l’émergence est le surgissement d’une nouveauté, n’est-elle pas en rupture avec ce sur quoi elle émerge ? S’il y a rupture dans le processus, celui-ci n’est-il pas discontinu ? (Op. cit., p.21)
一方で神秘経験を他の諸経験・諸現象と断絶させることを拒否しておきながら、他方で émergence を主張するとことは不整合ではないか。なぜなら、émergence が新たなものの出現なのであれば、それは既存のものと非連続なのではないか。
このような反論に対してネフは、非連続と émergence とは違うとして、次のように応える。
En revanche, si nous repérons des émergences successives de la mystique, nous serons en mesure de penser un processus finalisé, source à la fois de nouveauté et de continuité (ibid., p. 22).
継起的に発生する創発を見つけることができれば、それらがそこに属するところの一つの目的性をもった過程を想定することができる。この過程が同時に新しさと連続性との源泉となる。この過程においては、創発と連続性は矛盾しない。西田哲学の言葉を転用して言えば、創発とは、「非連続の連続」である。
しかし、それぞれの創発的現出をそれとして捉えることはそもそもどのようにして可能なのか。それが可能になるためには、それがある既存の枠組みの中で発生することが必要条件となるはずである。そうでなければ、私たちはその新しさをそれとして認識することさえできない。
単に共時的な諸現象間の相互的弁別性差異からだけでは創発は発生しないし、当然それとして認識することもできない。ある一つの通時的な過程を前提としなければ創発はありえないし、認識もできない。ネフが考察の対象を la « mystique occidentale » に限定している理由もそこにある。