内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

« Les Mystiques sont des modernes » という言葉の意味するところから ― La Mystique への歴史的アプローチ

2018-07-20 19:10:15 | 読游摘録

 今日は、昨日の定義の真逆の方向に向かう典型例を見てみよう。それは、Joseph Beaude(1933-), La Mystique, Cerf, coll. « BREF », 1990 という、日本式に言えば新書版サイズの一般向け解説書の中にある。著者は、十七世紀ヨーロッパ思想史が専門である。百二十三頁のこの小著は、著者が専門とする十七世の末に « Mystique » という言葉がある限定された意味で使われている文脈を描出することから始まる。
 その描出は、 « Les Mystiques sont des modernes » という一見すると逆説的な詩人ボワロー(1636-1711)の言葉の引用から始まる。当時の文学的流行に批判的で古典的典雅を理想とする詩人から発されたこの言葉は、もちろん褒め言葉ではない。ここでの « modernes » は、「儚い新奇さを求める悪趣味な輩たち」くらいの意味である。しかも、「神秘家連中」は当時すでに衰退傾向にあるという時代認識をこの言葉は伴っている。
 著者は、このようなボワローの見解の狭隘さを認める。しかし、間違ってはいないという。ボワローの言葉は、漠然としたある思想傾向を批判しているのではなく、当時廃れつつあったある種の新奇な表現に満ちた文学的テキストをその標的としている。著者によれば、« mystique » という定義が難しい対象を考察するにあたって、ボワローの事例は、歴史的かつ文献的に明確に限定された出発点をその考察に与えてくれるという有用性をもっている。
 以後の展開をつぶさに追っていては記事が長くなるばかりなので、著者のこのような立場が昨日のような普遍主義的で拡張型の定義と真っ向から対立していることがよくわかる囲み記事の一節を引用しよう。その囲み記事のタイトルは « Mystique occidentale et mystique orientale » となっている。そこで西洋と東洋とを概念の拡張使用によって同じ問題圏に引き込んで比較しようする近年の傾向をかなり激しい調子で批判している。

Comparaison n’est pas raison. En l’occurrence, elle élargit excessivement la notion de mystique. C’est une notion purement occidendale, formée dans le christianisme européen relativement récent, et il faut déjà beaucoup de précautions pour l’étendre à un Occident plus large dans le temps et dans l’espace, par exemple, jusqu’à l’Islam arabe ou perse du VIIIe siècle. Mais voir de la mystique en Inde ou au Japon paraît être un abus de langage, qui d’ailleurs produit parfois un singulier renversement. […] Quoi qu’on veuille, non seulement l’idée, mais le discours mystiques sont nés à l’Ouest. Ni la pensée, ni la connaissance, notamment la compréhension des cultures orientales, ne gagnent à la confusion des genres par l’extension immodérée d’une notion hors de son champs d’application, c’est-à-dire hors de l’aire relieuse et culturelle dans laquelle elle s’est formée (op. cit., p. 59).

 著者は、神秘的思考・言説は西洋で生まれたものであり、それ本来の適用領野を超えてその概念を行き過ぎた仕方で拡張して適用しようとすることは、諸範疇の混乱を引き起こすばかりであり、それが東洋の様々な異文化の理解に資するとろこはないと言い切る。
 このような歴史的厳格主義的立場に対する反論も人類学的な観点などから当然出てくるだろう。しかし、私自身は、どちかというと、歴史的文脈をしっかりと押さえ、その中で具体的に限定された時点から当時の言説に基づいて議論を出発させるこのようなアプローチの方を好む。そして、そのことは思想的視野を洋の東西に広く開くことと矛盾しない。