一つも間違いのない翻訳書というものはまず存在しない。たとえ最良の翻訳者によるものであっても、間違いがないということはありえないと言い切っていいだろう。
原書が大部であればあるほど、間違いの数も増えてしまうのは止むをえない。ましてや原書そのものが難解であり、文の構造も複雑である場合は、さらに間違い箇所が増加する。翻訳作業に掛けることができる時間が制約されているとき、ケアレスミスや訳し落としなどもほとんど不可避的に発生してしまう。校閲に十分な時間が取れないときに見逃されてしまうミスもある。共訳の場合、訳者間の訳語・文体の統一もやっかいな問題になることは自分にもその経験がある。
翻訳書は、その原書が読めない人たちこそそれを必要としている。原書がある程度読みこなせる語学力があれば、訳に不審な箇所があれば、自分で確かめることができる。もちろんそれだけ時間が掛かるわけだし、読書の愉しみも削がれてしまう。それに、その確認作業の結果、信頼できない訳だとわかってしまえば、以後不信感が先に立ってしまって、もうその先を読み続ける気にはなれないだろう。
原語がまったく読めない場合は、翻訳書に全面的に頼らざるを得ない。だから、それらの人たちに対して翻訳者は原書の真意を訳によって伝えるという責務を負うことになるはずである。これは容易ならざる責務である。原文にただ「忠実」であろうとし、あまりにも読みにくい訳文になってしまっては、たとえ間違いはなくても、読んでもらえないだろう。かと言って、わかりやすさを優先して、原文の構造から離れすぎては、「不実」になってしまう。
翻訳は、原文の細部への持続的な注意と訳の選択肢間の葛藤に耐える意力と不可避的な間違いの可能性についての謙虚な自覚とを継続的に要求される作業であるとつくづく思う。