昨日の記事の最後に引用したエティ・ヒレスムの日記の一節の前半がマイスター・エックハルト独語全著述仏訳一巻本の編訳者である Éric Mangin 氏の Maître Eckhart ou la profondeur de l’intime, Éditions du Seuil, 2012 にエピグラフとして掲げられている。
美しいフランス語で綴られたこのエックハルト研究については、2016年8月25日の記事から四日間に渡って取り上げた。著者とは、その直後の8月30日にストラスブール大学神学部での博士論文の審査員としてご一緒する機会があった。そのときのこともやはり同日付の記事で話題にした。
7月12日の記事からずっと神秘経験についての記事を書き続けているが、エックハルトに直接言及するすることはなかった。しかし、これら一連の記事を書き始めるきっかけとなった Frédéric Nef, La connaissance mystique, Cerf, 2018 の中でも、エックハルトにはしばしば言及されている。
ただし、ネフ自身は、同書のテーマからすればエックハルトの扱いがその中で比較的軽い理由として、すでに優れた先行研究(その中にアラン・ド・リベラの諸著作と並んでエリック・マンジャン氏の上掲書が挙げられている)があることと、彼自身がエックハルトを神秘家(un mystique)としてよりも神秘主義的哲学者(un philosophe mystique)と考えていることを挙げている(F. Nef, op. cit., p. 405. この点、私は同意できないが、これについて論ずることは別の機会に譲る)。
私自身は、神秘経験あるいは神秘主義全般に興味があるというよりも、キリスト教文化圏における神秘主義史の中の幾人かの神秘家に特別に大きな関心を持っている。それは普遍的体系を構築しようとする意志が「内破」する契機を歴史的文脈の中で捉えるというより大きな学的関心から来ている。
その中でも、エックハルトは、二十二年前に留学生としてストラスブール大学に来る前から読んでおり、ストラスブールと直接的な結びつきもあるだけに、私にとってかけがえのない思想家の一人であることは拙ブログでも繰り返し述べてきた(例えば、2014年9月14日の記事を参照されたし)。
諸々の雑事をそれとして理由の順序に従って粛々と処理しつつ、それらから脱却して再びエックハルトに立ち戻る時が到来している。