内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「寛容」あるいは « tolérance » について ― 丸山眞男の一つの談話をきっかけとして

2014-02-08 02:50:00 | 随想

 昨日の記事で引用した丸山眞男の「好さんとのつきあい」の中に出てくる「寛容」について、私見を述べておきたい。ただ、昨日の一文だけを取り上げて丸山の「寛容」についての考えを批判するのは乱暴な話以外の何物でもなく、議論としても実りあるものになりにくいであろう。そこで、以下に述べるのは、昨日引用した丸山の文章を読んだことをきっかけとした、私が常日頃「寛容」という言葉を聞くたびに、あるいはフランスで « tolérance » という言葉を耳にするたびに、どうしても感じてしまう違和感を自分の言葉で明確化する試みだとご理解いただければ幸いである。
 まず、「寛容」が英語の « Tolerance » あるいは仏語の « tolérance » の翻訳語として明治期に生まれた言葉であり、概念としての起源はヨーロッパ近世にあることを思い出す必要がある。この概念の登場は、西欧におけるカトリック普遍主義の崩壊を前提とする。宗教戦争、そして宗教改革を経て、宗教における多様な信仰を相互に容認せざるを得ないことを西欧人たちが自覚した結果として十六世紀中葉に生まれた価値の一つなのである。つまり、「寛容」は、積極的な理念として打ち出されたのではなく、対立する宗派間・宗教間で折り合いをつけるための妥協策をむしろ意味する。この意味での寛容とは、したがって、決して相手を心から許すことでも相手固有の価値を高く評価することでもない。ただ双方にとって無益な争いを避けるために歴史の前面に登場してきた約束事であるに過ぎない。自分たちの立場・権威・勢力圏等が脅かされないかぎりにおいて、相手のそれらを認めるというだけのことで、一度相手が自分たちのそれらを侵害しようとすれば、寛容はたちどころに不寛容へと転じうるという意味で、寛容は常に流動的で危うい事実上の均衡の上に成り立っている。寛容それ自体にはその適用範囲を規定する根拠は内在的にありえない。したがって、寛容は根本的な行動原則たりえない。ただ、他の原則から帰結として導かれうる方法的態度でありうるとは言えるだろう。
 英語の « Tolerance » も仏語の « tolérance » もラテン語の動詞 tolerare を語源とするが、この動詞の意味は、「苦痛に耐える」「苦痛とともに耐える」「苦しみつつ受け入れる」というのが基本的な意味であり、その意味のままの使用例をフランス語においても十五世紀に確認でき、次世紀もその意味での用法が一般的である。ただし、十七世紀に入って、宗教に関して「開かれた心を持つ」という積極的な意味を持ってくることは確かである。しかし、今日においても、「それ自体としては評価できないし、権利としてはそれを排除することも不可能ではないものを許容する」という意味が「寛容」の底に抜き難く残っていることは認めなくてはならない。
 丸山が言うような「それぞれの個性のちがいを出発点とする寛容」は、上に見たような「寛容」の語源からすれば、その定義に反する規定の仕方だと言わざるを得ない。それぞれの違いが前提され相互にその違いが最初から受け入れられている社会には、寛容は必要ないのである。寛容を掲げる必要も求める必要もそこにはない。寛容の要請は平等の不在を前提とする。寛容は、受け入れ難いもの、理解し難いもの、敵対するものが、まず存在するところでしか発生しない。そしてそれらを受け入れる者は、自分たちの奉ずる価値が脅かされない限りにおいて、それらを「寛容の心を持って」受け入れているに過ぎない。「寛容」には常に限度がつきものなのだ。それを踏み越えれば、途端に「不寛容」さらには「弾圧」「排除」に転じうる。少し意地悪な言い方をすれば、寛容は、丸山のいう「まあまあ寛容」でしかありえないのである。無限の寛容とは、そのような限度の否定であり、したがって、寛容そのものの自己否定にほかならない。
 寛容は、他者とのある距離を前提とする。直接的な係争関係にはいらないかぎりにおいて、人は「寛容」でありうるのだ。「寛容」は、優位な立場に立つものが他者への無関心・無理解・嫌悪・軽侮を隠蔽する体裁のいい仮面になりうることも忘れるわけにはいかない。
 自分の地位を相手に譲り、自分はその相手よりも低い地位に甘んずる、これを「寛容」と言うであろうか。けっして言わないであろう。少数派、反主流派、被差別側が多数派、主流派、差別者をそれとして容認することを「寛容」とは言わないであろう。虐げられし者たちが虐げるものを許すことを「寛容」とは言わないであろう。自分の生活を脅かすもの、破壊するものになすがままにさせることを「寛容」とは言わないであろう。自分を殺すものになすがままにさせることを「寛容」とは言わないであろう。
 「寛容」という概念は、もしそれが近代社会における強者・支配者が自己保存のために生み出した価値であるに過ぎないのならば、その近代社会の終焉とともに価値を失い、消え去るほかはないであろう。














丸山眞男「好さんとのつきあい」― 原理としての「寛容」と他者感覚

2014-02-07 04:52:00 | 読游摘録

 一昨日昨日と丸山眞男の竹内好についての文章 ― あるいは談話といったほうがいいかもしれないが ― を取り上げようと思うきっかけになったのは、鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』の「あとがき」に引用されていた丸山の談話「好さんとのつきあい」を読んだことだった。この談話は、竹内好が亡くなった1977年の翌年に出版された魯迅友の会編『追悼 竹内好』に収録されたのが初出で、今では『丸山眞男集』第十巻に収められている。私の手元にはどちらの本もないので、鶴見の本からの孫引きになってしまうが、単に竹内好評として優れていると思われるからというだけでなく、一個の人格として他者に対する時の基本姿勢ついて大切なことが言われている箇所だと思うので、引用の最後の一文を除き、引用全文を引く。ただし、予め断っておくと、私は以下の引用に示されている丸山の考えにはニつの点において批判的である。その二点については引用後に述べる。

 好さんという人について、ぼくの好きな点の一つは、自分の生き方を人に押しつけないところなんです。よく好さんのことを「厳しい」という人がいるでしょう。でもね、いわゆる「厳しい評論家」というのは、たいがい他人に厳しい割合には自分には甘いんです。で、自分の生き方を基準として他人を裁く傲慢なところがあります。が、好さんにはね、自分とちがった生き方を認める寛容さがあるんです。もちろん人の身の処し方については非常に厳しい意見をもっていますよ。でも、その人が単に世間体とか時流とかに従うのではなく、その人なりの立場から一つの決断をした場合には、自分ならばそう行動しないと思っても、その人の行き方を尊重するという、原理としての「寛容」をもっていました。それは残念ながら日本の知識人には非常に珍しいんです。他者をあくまで他者として、しかも他者の内側から理解する目です。これは日本のような、「みんな日本人」の社会では育ちにくい感覚です。日本人はね、人の顔がみなちがうように、考え方もちがうのが当たり前だ、とは思わない。言ってみれば、満場一致の「異議なし社会」なんです。ですからその反面は異議に対する「ナンセンス」という全面拒否になる。もっとも日本にも「まあまあ寛容」はあります。集団の和を維持するために「まあまあ大勢に影響はないから言わせておけ」という寛容です。そういう「寛容」と「片隅異端」とは奇妙に平和共存する。だけれども、それは、世の中の人はみんなちがった存在なんだという、それぞれの個性のちがいを出発点とする寛容ではないんです。好さんの場合、おそらく持って生まれた資質と、それから中国という日本とまるでちがった媒体にきたえられたことがあるんでしょうが、彼のゆたかな他者感覚は島国的日本人と対照的ですね。これは個人のつき合いだけでなく、実は彼の思想論にも現われています。鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』一九八-一九九頁)

 竹内好評としての当否を問うことは私にはできない。親友の丸山眞男がこう言うんだから、竹内好はきっとこのような人だったのだろうなという以上の感想はない。それは賛嘆の念とともにであるが。他方、私が読んでいて、印象づけられもし、また疑問符を打たざるを得なかったのは、まさに丸山の竹内評の二つのキーワードである「原理としての「寛容」」「他者感覚」についてである。
 前者に関しては、丸山が竹内に即してこの言葉を使う限りでは、竹内の人としてのあり方の基本を示すものとして何ら批判はないのだが、引用の後半に出てくる「それぞれの個性のちがいを出発点とする寛容」という一般化された寛容の定義には同意できない。ただ、それは「寛容」をフランス語の tolérance と等価と仮定しての話であり、この問題ついて説明しだすと長くなるので、それは明日の記事に譲る。
 後者の「他者感覚」については、丸山が七〇年代に入ってからしきりにこの言葉を使うようになったこともあり、問題化するのは、この言葉が出てくるテキストに一通り当たって丸山の意図を十分に理解してからでなければできないが、すでに何度かこの言葉に丸山の他のテキストでも出会ってきているので、それも含めて率直な感想を述べることが許されるならば、「他者をあくまで他者として、しかも他者の内側から理解する目」と言われると、そんなの土台無理でしょ、あるいは百歩譲ってそれができたとして、そのとき、その他者はもう他者でなくなってしまうんじゃないですか、と反問したくなるのをどうすることもできない。この問題についても日を改めて考えてみることにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


丸山眞男「竹内日記を読む」 ― 自己凝視の方法としての日記

2014-02-06 00:00:00 | 読游摘録

 鶴見俊輔の『竹内好 ある方法の伝記』でも、竹内好の日記は度々引用あるいは参照されているが、それは、竹内好の思想家としての形成過程を知るための第一級資料であるばかりでなく、戦前・戦中・戦後を生き抜いた一つの類稀な人格による同時代の記録としてきわめて貴重であもあるからだが、竹内を直接知る友人知己たちにとっては、その知られざる面を発見して驚かされる記述も少なくないということも竹内の日記を特別興味深い読みものにしているようである。
 丸山眞男の「竹内日記を読む」は、竹内のすべての日記が収められた『竹内好全集』(筑摩書房)第十五・十六巻が刊行された際に、同全集の編集者の質問に答える談話という形で、雑誌『ちくま』一九八二年九月号に「丸山真男氏に聞く 聞き手・編集部」という表題で掲載されたのが初出だということが、『丸山眞男集』第十二巻の「解題」からわかる。おそらく談話記録に丸山自身が手を入れた上で発表されたものであろう。同巻で十五頁に渡るかなり長い談話記録である。話し言葉の調子が残っていることもあり、丸山の竹内への敬愛の深さがよく伝わってくる。例えば、竹内の日記を改めて読みながら、「ああもうこの人と面と向かって話せないんだなという寂寥の思いが胸をつきあげて来て、思わず涙ぐんでしまった」とある。
 竹内の日記そのものは読まずに丸山の談話だけから竹内の考えを忖度することには無理があるが、丸山が竹内のよき理解者であったことはこの談話からもわかる。例えば、竹内の一九三七年から一九三九年にかけての二年間の北京留学中の日記からわかるその無為放蕩とも言えるような生活振りについて、特に詳細を極めた記述が見られるM子との恋愛とその挫折に触れながら、丸山は次のように当時の竹内の生き方を捉え、そこに戦後経験よりも「もっと奥底の精神的回心」を見ている。

そうしてすべてが自分の内面の奥底をのぞきこむ機縁になっている。意地張り・見栄坊・負け惜しみ・俗物性等々……。ここにはあの泰然自若とした、前にいる人を何かすくませるような好さんの裏側に潜んでいる小心翼々としたもう一つの魂が露呈していて、それを好さんがたじろがずに見つめています。(中略)
 ここで竹内好はデカダンスとニヒリズムをくぐり、自分のすべてを坩堝にたたきこんで生れ変るんじゃないですか。北京生活の混沌のなかに身を置いて、ちょうど阿Q的な中国が鉄火の洗礼を受けて変貌してゆくのとパラレルに、竹内好も自己凝視を通じて昨日までの自分と変わってゆく。そこから引返す途はもうない、という極限のところに帰国直前の好さんは立っていたように見えるんです。

「竹内日記を読む」『丸山眞男集』第十二巻、三一-三二頁。

 竹内好の日記は、このような自己凝視の方法として、青年期から晩年まで意識的に書かれたのであろう。そして、単に記録を残すという意味で書かれただけでなく、竹内自身、自分の何かを確かめるように自分の過去の日記を読み返していることも、編集者の発言からわかる。同じ編集者の言として、竹内の北京時代の「酒色に溺れる日々」について、「実はあまり赤裸々に書いてあるので、出版社としてもこのまま出していいものかという問題があったんですが……。」とあるから、自分のことを徹底して記録する姿勢が貫かれていたのだろう。ナルシシズムとは無縁の、自己への冷め切った眼差しをそれは前提とするが、しかし諦観的ニヒリズムに留まるのではなく、冷徹なまでの自己凝視から自己を変革していこうとする凄まじい覚悟がそのような姿勢を保たせ、竹内の「思想的肉体」を鍛え上げていったのであろう。













丸山眞男の竹内好評 ― 世界市民的感覚

2014-02-05 02:20:00 | 読游摘録

 昨日までの鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』の記事を書いているとき、同書の「あとがき」に丸山眞男の談話「好さんとのつきあい」(『丸山眞男集』第十巻)が引用されていて、それがとても印象に残ったので、手元にある『丸山眞男集』の中から他にも竹内好について語っている文章がないか探してみたところ、二つ見つかった。私が持っているのは全十六巻中の七巻に過ぎないから、きっと他の巻にもあることだろうし、手元の『丸山眞男集』を探したといっても、タイトルから探しただけなので、竹内好に言及している文章はその七巻の中にもまだあるかもしれない。
 見つかった二つの文章のうち、年代的に古い方は、竹内好評論集第一巻(筑摩書房)の月報三(一九六六年六月)初出の「好さんについての談話」。このタイトルには「好」の脇に「ハオ」とルビが振ってある(記事のはじめに言及した「好さんとのつきあい」も同様である)から、丸山眞男のように親しい友人は竹内好のことをそう呼んでいたのだろう。『丸山眞男集』第九巻に収録され、わずか三頁ほどの短い文章だが、竹内好の思想的資質をよく浮かび上がらせ、しかも友情が滲み出ていて、敬愛する友人についてこういう文章が書ける丸山のことも書かれた竹内のことも心より羨ましく思わずにいられない。
 丸山にとって、竹内は、「思想的資質・発想が全くちがっているけれども、ちがった方向から思いがけずばったり会うというか、思いがけず隣にいる」、そういう人で、二人が友人になった一つのきっかけも、竹内が丸山の書いたものを批判したことだったと言う(『丸山眞男集』第九巻、三三七頁)。
 丸山は、自分の感じとして、「好さんは、根本的に、インタナショナルだということなんです。むしろコスモポリタンなところさえある」と言っている。さらに、「インタナショナルを超えてむしろ世界市民的なものを根底に持っているような気がします。「通説」とは逆だけれど……」と付け加えている。そして、なぜ竹内好がそのような感覚を身につけているかを以下のように説明する。

 これは、一つには中国のことをほんとうに勉強したからだと思います。彼は、中国研究を日本人がやることの意味を最もよく考えている人ですが、その場合、「一人の日本人が」という点が大事だと思う。自分と日本とを一体化して、日本の主体性に立って中国を研究するという華夷思想の裏返しのような伝統は江戸時代からありますが、彼はそういう過去の研究態度の批判を含めた中国研究を行なおうしているわけで、それは非常に困難な道であり、孤独な道で、そうたくさんの追随者があるはずがない。中国というものは、長い間それ自身ひとつの宇宙みたいなものだったから、世界市民的発想も生まれたが、そういう条件は今後は急速になくなって、中国もひとつの地域となって行くでしょう。その場合にただ中国には天下思想があるなどという伝統へのもたれかかりではすまなくなる。ですから、たんにヨーロッパ世界主義を中国あるいはアジア世界主義にかえただけでは、ちっとも問題の解決にならない。やっぱり一種の特殊の普遍化でしかない。ところが好さんの場合は、民族的内発性ということをあれだけいう人が、世界中どこでも同じ人間が住んでいるという感覚、隣の人は日本人である前に人類の一員なんだという感覚を体質的に身につけている。私はその点を高く買うんです(同書三三八頁)。

 このような世界市民的感覚を身につけた人がどれくらいいるのだろう。本来の意味のギリシア末期に出た「世界市民」の精神を持った人たちは、このグローバリゼーションの世界の中にあっても、やはり少数に限られるのではないだろうか。「お前らと一緒にされてたまるか!」と心の中で叫ばない日はない器の小さい私など、とてもじゃないがこのような感覚を日常の現実感覚として持つことは一生できないだろう。情けない話である。そんな話は脇に除けて、もう一箇所引用する。

 畏友という言葉があるけれど、好さんはやっぱりこわい。彼にも言ったことがあるけれど、どすのきいたヤクザのように、すっと側にすりよって来たかと思うと、グサッと横腹を刺される、というようなところがあります(同書三三九頁)。

 ここは読んでいて、クスっと笑ってしまったが、いや、これはほんとうにそうなのだろうと思い直した。丸山眞男からも、鶴見俊輔からも、吉本隆明からも畏敬されていた竹内好という異数の思想家の凄みをまだ私などはよくわかっていないのだろう。













鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』を読みながら(その六)― 「方法としてのアジア」

2014-02-04 00:00:00 | 読游摘録

 今日の記事で六回目となる鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』の読書記録も今日でひとまず締め括りとする。その締め括りとして、鶴見が竹内の論文「方法としてのアジア」に言及している箇所を取り上げる。この論文には、武田清子編『思想史の対象と方法』(創文社、1961年)と竹内好評論集第三巻『日本とアジア』(筑摩書房、1966年)との二つの版があり、後者の巻末に付された著者自身の解題の中に、前者の版について、「冗長の部分を削った。事実の誤りも数カ所改めた」との注記がある。『竹内好全集』(筑摩書房)は未見。今手元には後者の再刊であるちくま学芸文庫版(1993年)があるだけなので、この論文の鶴見によって引用されていない箇所に言及する際にはこの学芸文庫版に拠る。
 この論文の元になっているのは、一九六〇年一月二十五日の国際基督教大学アジア文化研究委員会での講演である。まず、鶴見による同論文の基本的立場の説明を引く。

竹内好は、地理学的区分としてひとつのアジアという実体が存在するとは考えていない。むしろ、梅棹忠夫が『文明の生態史観』に書いたように、環境としても、くらしかたの流儀から見ても、アジアの諸地域はバラバラだと考えている。しかし、これを西欧からの侵略にさらされたものとして見る時、そこにひとつのアジアがあり、おしかかってくる西欧の力(武力、技術力、金力、文化力)に抵抗してゆくことをとおして、方法としてのアジアを見ることができるという(179頁)。

 このように導入的な説明をしてから、鶴見は竹内の同論文からかなり長い引用をする。それだけその箇所を重要とみなしているわけである。この箇所は同論文の末尾に見出される。しかし、鶴見の引用は、同論文の最後から二番目の段落の途中から始まっており、文脈が少しわかりにくくなっているところがあるので、鶴見が引き写している部分を引用する前に、『日本とアジア』ちくま学芸文庫版に依拠しつつ、文脈について一言補足説明を予め加えておく。
 その段落で、竹内は、「自由」や「平等」などの文化価値が西欧からアジアに浸透してくるとき、それが武力を伴い、植民地侵略によって支えられていたために、それらの価値自体が弱くなっていることを問題として指摘した後に、次のように言う。

たとえば平等と言っても、ヨーロッパの中では平等かもしれないが、アジアとかアフリカの植民地搾取を認めた上での平等であるならば、全人類的に貫徹しない。では、それをどう貫徹させるかという時に、ヨーロッパの力ではいかんともし難い限界がある、ということを感じているのがアジアだと思う。東洋の詩人はそれを直観的に考えている。(『日本とアジア』469頁)

 鶴見の引用は、この直後の文から論文の最後の文にまで及んでいる。

 タゴールにしろ魯迅にしろ。それを全人類的に貫徹するものこそ自分たちであると考えている。西洋が東洋に侵略する、それに対する抵抗がおこる、という関係で、世界が均質化すると考えるのが、いま流行のトインビーなんかの考えですが、これにもやっぱり西洋的な限界がある。現代のアジア人が考えていることはそうでなくて、西欧的な優れた文化価値を、より大規模に実現するために、西洋をもう一度東洋によって包み直す、逆に西洋自身をこちらから変革する、この文化的な巻返し、あるいは価値の上の巻返しによって普遍性をつくり出す。東洋の力が西洋の生み出した普遍的な価値をより高めるために西洋を変革する。これが東対西の今の問題点になっている。これは政治上の問題であると同時に文化上の問題である。日本人もそういう構想をもたなければならない。
 その巻き返す時に、自分の中に独自なものがなければならない。それは何かというと、おそらくそういうものが実体としてあるとは思わない。しかし方法としては、つまり主体形成の過程としては、ありうるのではないかと思ったので、「方法としてのアジア」という題をつけたわけですが、それを明確に規定することは私にもできないのです。(竹内前掲書469-470頁、鶴見前掲書179-180頁)

 この「方法としてのアジア」を、「竹内好の思想全体を支えるキーワードのひとつである」(180頁)と鶴見は見る。そのことに間違いはないであろう。
 この論文が書かれてから半世紀以上が経過している現在、当時の竹内が立っていた立脚点から私たちは思想的にどれほど前進したと言えるであろうか。むしろ後退していると言わざるを得ないのではないだろうか。アジア諸国が日本の高度経済成長を皮切りに一つの経済ブロックとして六十年代以降今日に至るまで飛躍的に発展し、相対的に西欧からの圧迫を受けなくなったどころか、経済面では欧米諸国を逆に警戒させるまでになり、アジア内では競合関係がますますその激しさを増している今日、竹内の言う「方法としてのアジア」はその措定が困難、あるいはほとんど不可能になっていると言わざるを得ないのではないだろうか。
 この途方もなく大きな問題を考えるための手がかりは、どこに見出だせるであろうか。現在の困難な現実を前に、絶望するしかないのであろうか。あるいは、盲目的で排他的なナショナリズムに走るほかないのであろうか。それがいやなら、恰好だけはいいが現実には無力なコスモポリタニズム、あるいは、大仰で空疎な世界共和国の幻想にでもしがみつくか。
 しかし、自らの「偏見」を自覚しつつ、そこから始めるための手がかりは、先人たちによって様々な形で与えられている、と私は考える。こう言うとき、私が念頭に置いているのは、差し当たり、次の三つの哲学的構想である。田辺元の「種の論理」を可塑的共同体構築の論理として読み直すこと、三木清の「構想力の論理」を受け継ぎ、想像力の媒介によるパトスとロゴスとの統一を技術によって具体的な生活形式として実現する手段を提案すること、井筒俊彦による東洋思想の「共時的構造化」論を国際的な共同研究として実践的・戦略的展開していくこと。













鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』を読みながら(その五)― 「思想的肉体」

2014-02-03 00:48:00 | 読游摘録

 戦後の竹内の思想形成の歩みに触れた鶴見の評言を「大東亜戦争記念の碑」と題された章から引く。

一つの生を歩いていく限り、生きる力の一部分として転形をさけることは出来ない。歩く途上で、偏見だけで歩き続けられないのを知って、偏見をただす努力はする。しかし、偏見から、完全に離れることはできない。竹内好は他人の偏見を楽しむことを知り、自分に活力を与えている偏見に好意を持ち、その偏見が知識と衝突する局面に対して敏感である。最後まで偏見を失うことはない(162頁)。

 鶴見によって見事に捉えられた竹内のこの思想的基本姿勢は、いかなる立場にあったとしてもそれを自らの思想形成の基礎に置くことができるという意味で、一つの普遍性にまで到達していると言える。この基本的姿勢からはいろいろな帰結が導き出せるが、その一つは、あらゆる「正しい意見」あるいは「善い考え」は、それらが一方的に主張され、他の意見・考えを排除するとき、そうする者に、自らの転形を不可能にし、自らの生きる力を失わせるということだ。それだけではすまない。他人が自由にその「偏見」を主張することを受け入れ、それを楽しむ心の余裕が失われ、それに耳を傾け、意見を交わす対話の空間を消滅させ、したがって他人の「偏見」から活力を与えられることもなくなり、自らの「偏見」を新しい知識によって検証する機会も失われてしまう。結果として、自分だけのことではなく、他人のことも含めて、人間における生命の躍動が失われ、生命力が枯渇していくことにもなりかねない。「正しい意見」「善い考え」しか認めない世の中は、したがって反生命的であり、そのような世の中は思想的にも貧困化せざるを得ない。これは物質的貧困より遥かに深刻な問題だ。
 鶴見は、「善に善を重ねる議論を彼は信用しなかった」という。竹内自身、岩波書店の雑誌『世界』の座談会に出た時の感想の中で、座談会に出席していた「秀才たち」の発言について、「たぶんそれは全部正しいにちがいないのだ。けれども正しいことが歴史を動かしたという経験は身にしみて私には一度もない」と記している(鶴見前掲書163頁)。
 上に引用した思想的基本姿勢を、竹内はどこまでも貫こうとした(生涯貫きえたかどうかについては、吉本隆明の竹内好追悼文「竹内好 反近代の思想」(『増補追悼私記』洋泉社、1997年)を読むと、若干留保する必要があるように思われるが、その点にここでは立ち入らない)。

 自分の立場を純粋な善一つに還元する理想主義の手順から彼はくりかえし自由になろうとする。同時に失敗に終わることを知っていながら、新しく自分にわなをかける。大東亜戦争の予測に失敗したから戦後については何も言わない、というような道を彼は採らない。戦後中国の文化大革命に至る道筋について彼は予測に失敗し、その予測の失敗を認めつつ、彼は中国について評論することをやめない(163頁)。

 「正しいこと」を終始一貫主張し続けることが思想家を思想家たらしめているのではない。自らの「偏見」をそれとして主張しつつ、独善に陥らず、絶えずそこから自由になるための準備を怠らないことが一個の思想家の「思想的肉体」(吉本前掲書185頁、鶴見前掲書185頁)を鍛えるのだ。一つの「偏見」からの解放の機縁は、自らの予測の失敗を証明する出来事によって、自分のそれとは異なった他者の「偏見」によって、自分の無智と盲目を教える新しい知識によって与えられるだろう。そして、その解放はあらたな「偏見」として主張され、それもまたいずれ吟味に付される。精神の弛緩に他ならない相対主義にも、怯懦の別名にすぎないニヒリズムにも陥らずにこの思想的基本姿勢を貫くこと、そのことに竹内好の思想的生涯は賭けられていたと言うことができるだろう。













鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』を読みながら(その四)― 「近代の超克」

2014-02-02 02:10:00 | 読游摘録

 鶴見は、『竹内好 ある方法の伝記』の全体の半分近い百頁を割いて、戦中から戦争直後にかけての竹内の思索と行動を、引用を重ねながら丹念に追っている。そこには、戦後の竹内の思想的立場と方法的自覚を理解するために重要な鍵がいくつか見いだされる。特に、魯迅論、戦争期の太宰治作品への傾倒(後年、竹内は、「先輩作家は別として、同世代でこれほど親近感をもった作家は、前にも後にも私には太宰治ひとりしかいない」とまで言っている)、回教圏研究所での交流、従軍と敗戦などは、それぞれに取り上げられるべき重要なテーマだろう。しかし、このブログの記事でそこまでするつもりはない。鶴見の本を読んでいて私が特に印象づけられた箇所を摘録しておくにとどめる。
 同じ理由で、鶴見の本では一言言及されているに過ぎない竹内の論文「近代の超克」にも、今回の一連の記事の中では触れない。しかし、この「近代の超克」問題についてはよく準備をした上でまた立ち戻るつもりでいる。実は、すでに何度か、一九四二年に『文學界』に掲載された座談会「近代の超克」の記録とその座談会の出席者たちによってその座談会のために執筆された論文をまとめた『近代の超克』(冨山房百科文庫、一九七九年。同書には、松本健一による解題が巻頭に置かれ、巻末には竹内の論文「近代の超克」が併録されている)を読もうとしたのだが、とても最後まで読み通す気になれず、その都度途中で投げ出してしまったのである。その後、広松渉の『〈近代の超克〉論 昭和思想史への一視角』(講談社学術文庫、一九八九年)を読み、これはイナルコの講義「同時代思想」でも取り上げたことがあり、それによって「近代の超克」論へアプローチする一つの手がかりも与えられたから、いずれは当の『近代の超克』と昨日も言及した座談会「世界史的立場と日本」とを併せ読み、それらに対する自分の立場をはっきりさせなくてはと思ってはいる。そのときには、竹内の論文「近代の超克」が一つの導きの糸となってくれることだろう。同論文の中で、竹内の方法的立場がよく表されている箇所を引く。

 思想からイデオロギイを剥離すること、あるいはイデオロギイから思想を抽出することは、じつに困難であり、ほとんど不可能に近いかもしれない。しかし、思想の次元の体制からの相対的独立を認め、事実としての思想を困難をおかして腑分けするのでないと、埋もれている思想からエネルギイを引き出すことはできない。つまり伝統形成はできないことになる。ここで事実としての思想といったのは、ある思想が何を課題として自分に課し、それを具体的な状況のなかでどう解いたか、また解かなかったを見ることをいう。「近代の超克」(『近代の超克』283-284頁)

 この箇所は、直接には戦中の「近代の超克」論について言われていることだが、思想の方法として普遍的な課題の一つを規定しているということができるだろう。












鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』を読みながら(その三)― 「大東亜の文化」

2014-02-01 02:58:00 | 読游摘録

 「大東亜戦争と吾等の決意」というタイトルの文章が『中国文学』第八十号に無署名で発表されたのは、太平洋戦争勃発の翌月一九四二年一月のことであった。この宣言文は、「中国文学研究会」の同人会にその案が諮られた上で、竹内好によって執筆された。執筆者の胸の高鳴りが伝わってくるような文体で聖戦の思想がくり広げられたその宣言全文をそのまま書き写しながら、鶴見は、この宣言は、「竹内好にとって、彼の思想の誠実な表現であった」と言う(98頁)。これは、「その後の竹内好の思想の基礎となるもの」だと捉える(100頁)。そして、その宣言を批判しつつ、事実によって否定された宣言中の予測を竹内自身が戦後、思想的課題としてどう受け止めたかについて次のように記す。

 この宣言の特徴は現実把握の弱さである。宣言は予測としては、事実によってうらぎられた。予測の失敗は、戦中の大東亜建設の現実を見ることによって、竹内好自身にあきらかになり、敗戦によって一つの終わりに至る。新しい価値の定立としての預言と、事実の展開についての予測の区別をたてることは、それ以後、竹内が自分の方法に苦痛をもってくりいれた要素である(100頁)。
 だが、アジアとその中での日本の立場についての竹内の認識の変化は、宣言文が書かれてから一年二ヶ月後に発表された次の文章にすでにはっきりと見て取ることができる。
 私は、大東亜の文化は、日本文化による日本文化の否定によってのみ生まれると信じている。日本文化は、日本文化自体を否定することによって世界文化とならなければならぬ。無であるがゆえに全部とならねばならぬ。無に立帰るのことが世界を自己の内に描くことである。日本文化が日本文化としてあることは、歴史を創造する所以ではない。それは、日本文化を固定化し、官僚化し、生の本源を涸らすことである。自己保存文化は打倒されねばならぬ。そのほかに生き方はない。

(「『中国文学』の廃刊と私」、『中国文学』第九十二号、一九四三年三月。鶴見前掲書102頁からの引用)

 先の宣言文執筆とこの文章の発表との間に、『文学界』の「近代の超克」特集号が刊行されており、竹内は発売と同時にこのセンセーショナルな座談会記録を読んだことであろう。その上で、この文章は書かれている。竹内の思想的立場が、「近代の超克」論とどこで異なり、それとほぼ時を同じくして『中央公論』に掲載されたかの悪名高き座談会「世界史的立場と日本」に見られる京都学派の立場とどう違うのかをよく見極めるのに、この文章はとても重要な位置を占めている。この文章をはじめて読んだとき、京都学派と日本浪曼派とに対する、「肉を切らせて骨を切る」とでも形容できそうな切り込みの迫力を私は感じた。ここから戦後の論文「近代の超克」(一九五九年)「方法としてのアジア」(一九六一年)も生まれて来る。