内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『風姿花伝』の〈花〉再考 ― 参照テキストについて

2014-02-10 00:07:00 | 読游摘録

 『風姿花伝』の〈花〉をめぐる哲学的考察に入る前に、この芸能論の古典を読むにあたって参照したテキスト・注釈書を挙げておきたい。それぞれの初版の出版年順に挙げる。小西甚一『世阿弥集』(一九七〇年に筑摩書房から出版された〈日本の思想〉全二十巻の中の一冊。ただ、私が持っているのはこの初版ではなく、その復刻版である『世阿弥能楽論集』(たちばな書房、二〇〇四年)である)。川瀬一馬校注『花伝書(風姿花伝)』(講談社文庫、一九七二年)。田中裕校注『世阿弥芸術論集』(新潮日本古典集成、一九七六年)。竹本幹夫訳注『風姿花伝・三道』(角川ソフィア文庫、二〇〇九年)。さらに、訳者自身による四十五頁に及ぶ長い序説と五十七頁に渡る後注を伴った René Sieffert の仏訳 La tradition secrète du nô, Gallimard / Unesco, collection « Connaissance de l’Orient », 1960 も参照した。いずれの版からも、多くのことを学んだが、こちらの浅学非才ゆえに、よく理解できていないところも多々あろうかと思う。
 小西、川瀬両博士によるそれぞれの刊本には、長年能楽研究に心血を注いでこられた両碩学の味わい深い感懐が「序」あるいは「あとがき」に簡にして要を得た澄明な文章で表現されており、その一部をそれぞれから引いておきたい。
 まず、一九〇六年生まれの川瀬一馬博士(一九九九年没)は、世阿弥研究の第一人者として知られていた中世文学研究・書誌学の大家であるが、滋味あふれる随筆も多数書かれており、その一部は『柚子の木』『蝸牛』(いずれも中公文庫)に収められている。『風姿花伝』については、世阿弥の父観阿弥の口述であり、世阿弥はその「筆記者(編者)」とする点において、他の参考文献と異なる立場に立つ。今日の学界では、このような説に与する学者はほとんどいないのではないかと思う。父観阿弥からの教えなしに世阿弥の芸能論は成り立たなかったであろうとしても、『風姿花伝』は、その現在に伝えられている形に至るまでの複雑な経緯を考えても、やはり世阿弥の著作とみなすべきであろう。それは、例えば、『歎異抄』における唯円、『正法眼蔵随聞記』における懐奘のように、その偉大なる師の言行を伝える弟子の立場に身を置くのとは明らかに違う。それはそれとして、川瀬博士は、中学生の頃すでに謡や仕舞を習われ、早くから世阿弥の伝書に接せられ、以後半世紀以上に渡って『花伝書』に親炙されてきたことにかわりなく、上記の講談社文庫版を上梓される一九七〇年までに実に八十四回も『花伝書』を大学等で講義されている。同版の「序」に見られる次のようなさりげない一節に私は深い感動を覚えないではいられない。

講義の方も回数を重ねたので、今ではそのかみの塙保己一検校のごとく暗闇でも全本文を講義できる程になっている。花伝書の内容が自然に腹の中におさまっていて、かなりこなれた講義が口をついて出てくるような気もするのである。その上、花伝書は何回講じても、講ずる度ごとに日に新らたな感じである。私には花伝書によって自分の人間の進みを量ることができるように思われる。花伝書はそれだけの内容を持っているのである。

 小西甚一博士(一九一五-二〇〇七)は、その膨大・広範・圧倒的な学術研究で学界に屹立する存在であるばかりでなく、古文学習参考書として書かれた古典的名著『古文研究法』(洛陽社)、古語学習辞典の傑作『基本古語辞典』(大修館書店)によって高校生・大学受験生にもよく知られた不世出の碩学であることは私ごときがくだくだしく紹介するまでもないことであろう。上記二著には私自身受験生時代大変お世話になった。『俳句の世界』(講談社学術文庫)は私が度々参照する本の一つで、今も椅子から立ち上がるだけで取れる位置に並べてある。趣味として、能・狂言を舞い、俳句を詠まれた。博士をさらに日本文学研究者の中で稀有な存在にしているのは、スタンフォード大学、ハワイ大学、プリンストン大学でも長年教授・研究され、英語にも堪能であり、欧米の文学批評理論にも造詣が深いことである。
 『世阿弥能楽論集』の「あとがき」には、「本書は、本当に骨を折ったというにふさわしいほど力を入れて取り組んだ著作」だとある。その理由は以下の一節を読めばわかる。

 この世阿弥の能楽論集は、日本の宝であるとともに、世界の宝でもあると思います。それゆえわたくしは、日本文化に興味のある方には広く読んでいただきたいのです。日本文化を考えようとする方にとっては、心にかかる問題が必ずどこかに取り上げられてあるという自信もあります。

 博士の願いは、現代語訳についての次のような配慮にも表れている。

いささか大げさに言えば、世界中の読者を念頭において、読みやすく分かりやすい言葉を選んであり、日本語の読める外国の方にも通じやすい日本語を使っております。(中略)本書における現代語訳に際しても、これを英語で書くとどうなるかということをまず考えて、その後に日本語にしたのです。そういう工夫と努力が、難解というベールの彼方に置かれていた世阿弥の考えが、若い人や外国人の読者に身近に受け取られ、深く理解してもらえるよすがになれば、喜ばしい限りです。

 博士のような大碩学の驥尾に付して次のようなことを述べるのは不遜の誹りを免れ難いとは思うが、私がフランスの大学で、日本の古典を直接の対象とするわけにはいかない講義の中でも、あえて『風姿花伝』を紹介するのは、少なくとも気持ちの上では博士と同じ願いを持っているからなのである。