昨日の記事で引用した丸山眞男の「好さんとのつきあい」の中に出てくる「寛容」について、私見を述べておきたい。ただ、昨日の一文だけを取り上げて丸山の「寛容」についての考えを批判するのは乱暴な話以外の何物でもなく、議論としても実りあるものになりにくいであろう。そこで、以下に述べるのは、昨日引用した丸山の文章を読んだことをきっかけとした、私が常日頃「寛容」という言葉を聞くたびに、あるいはフランスで « tolérance » という言葉を耳にするたびに、どうしても感じてしまう違和感を自分の言葉で明確化する試みだとご理解いただければ幸いである。
まず、「寛容」が英語の « Tolerance » あるいは仏語の « tolérance » の翻訳語として明治期に生まれた言葉であり、概念としての起源はヨーロッパ近世にあることを思い出す必要がある。この概念の登場は、西欧におけるカトリック普遍主義の崩壊を前提とする。宗教戦争、そして宗教改革を経て、宗教における多様な信仰を相互に容認せざるを得ないことを西欧人たちが自覚した結果として十六世紀中葉に生まれた価値の一つなのである。つまり、「寛容」は、積極的な理念として打ち出されたのではなく、対立する宗派間・宗教間で折り合いをつけるための妥協策をむしろ意味する。この意味での寛容とは、したがって、決して相手を心から許すことでも相手固有の価値を高く評価することでもない。ただ双方にとって無益な争いを避けるために歴史の前面に登場してきた約束事であるに過ぎない。自分たちの立場・権威・勢力圏等が脅かされないかぎりにおいて、相手のそれらを認めるというだけのことで、一度相手が自分たちのそれらを侵害しようとすれば、寛容はたちどころに不寛容へと転じうるという意味で、寛容は常に流動的で危うい事実上の均衡の上に成り立っている。寛容それ自体にはその適用範囲を規定する根拠は内在的にありえない。したがって、寛容は根本的な行動原則たりえない。ただ、他の原則から帰結として導かれうる方法的態度でありうるとは言えるだろう。
英語の « Tolerance » も仏語の « tolérance » もラテン語の動詞 tolerare を語源とするが、この動詞の意味は、「苦痛に耐える」「苦痛とともに耐える」「苦しみつつ受け入れる」というのが基本的な意味であり、その意味のままの使用例をフランス語においても十五世紀に確認でき、次世紀もその意味での用法が一般的である。ただし、十七世紀に入って、宗教に関して「開かれた心を持つ」という積極的な意味を持ってくることは確かである。しかし、今日においても、「それ自体としては評価できないし、権利としてはそれを排除することも不可能ではないものを許容する」という意味が「寛容」の底に抜き難く残っていることは認めなくてはならない。
丸山が言うような「それぞれの個性のちがいを出発点とする寛容」は、上に見たような「寛容」の語源からすれば、その定義に反する規定の仕方だと言わざるを得ない。それぞれの違いが前提され相互にその違いが最初から受け入れられている社会には、寛容は必要ないのである。寛容を掲げる必要も求める必要もそこにはない。寛容の要請は平等の不在を前提とする。寛容は、受け入れ難いもの、理解し難いもの、敵対するものが、まず存在するところでしか発生しない。そしてそれらを受け入れる者は、自分たちの奉ずる価値が脅かされない限りにおいて、それらを「寛容の心を持って」受け入れているに過ぎない。「寛容」には常に限度がつきものなのだ。それを踏み越えれば、途端に「不寛容」さらには「弾圧」「排除」に転じうる。少し意地悪な言い方をすれば、寛容は、丸山のいう「まあまあ寛容」でしかありえないのである。無限の寛容とは、そのような限度の否定であり、したがって、寛容そのものの自己否定にほかならない。
寛容は、他者とのある距離を前提とする。直接的な係争関係にはいらないかぎりにおいて、人は「寛容」でありうるのだ。「寛容」は、優位な立場に立つものが他者への無関心・無理解・嫌悪・軽侮を隠蔽する体裁のいい仮面になりうることも忘れるわけにはいかない。
自分の地位を相手に譲り、自分はその相手よりも低い地位に甘んずる、これを「寛容」と言うであろうか。けっして言わないであろう。少数派、反主流派、被差別側が多数派、主流派、差別者をそれとして容認することを「寛容」とは言わないであろう。虐げられし者たちが虐げるものを許すことを「寛容」とは言わないであろう。自分の生活を脅かすもの、破壊するものになすがままにさせることを「寛容」とは言わないであろう。自分を殺すものになすがままにさせることを「寛容」とは言わないであろう。
「寛容」という概念は、もしそれが近代社会における強者・支配者が自己保存のために生み出した価値であるに過ぎないのならば、その近代社会の終焉とともに価値を失い、消え去るほかはないであろう。