内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『風姿花伝』の〈花〉再考 ―自由と形式の関係を手掛かりとした一哲学的考察(六)

2014-02-16 06:36:17 | 哲学

これ、人々心々の花なり。いづれを真にせんや。ただ時に用ゆるをもて、花と知るべし。

 これが結論となっている「花伝第七別紙口伝」終わりの方の一節全体を読めば明らかなことは、それ自体においてつねに自己同一的なただ一つの「理想的な花」などというものは存在しないということである。世阿弥が「花」と呼ぶものは、自らが置かれた場所に応じて無限に多様な形において自らを表現するところのものなのである。それは時間性の彼方に実体として自己同一的にとどまるものとは根本的に対立する。
 私が一昨日の記事で、『風姿花伝』の本文には見出されない「永遠の現在における花」という第三の〈花〉を世阿弥能楽論解釈のために導入したのは、永遠の現在として生きられた各瞬間においてある特定の一つの形を自らに与えることができる無限の受容可能性をそれとして世阿弥のテキストから浮かび上がらせようとしてのことなのである。このような「珍しき理」の観点から見るとき、失われることなき「真の花」とその季節にある限られらた間だけ咲く「時分の花」との間に世阿弥が立てた区別は、舞台上にある形姿において〈現れるもの〉と〈現れること〉そのこと自体との存在論的差異をよりよく理解させてくれる。この両者がある一つの現実として「永遠の現在の花」において不二不可分不可同なものして舞台に現成するとき、それを世阿弥は端的に「花」と呼ぶのである。