内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『風姿花伝』の〈花〉再考 ―自由と形式の関係を手掛かりとした一哲学的考察(八)

2014-02-18 02:06:00 | 哲学

 〈花〉、それはある時ある所に咲く時分の花の影に本来的に見えないものとして自らの姿を隠すものであると同時に、その時その所に咲く花をそのように咲かせるところのものである。永遠の現在として生きられた〈今〉において舞台の上に無限に多様な形姿を立ち現れさせながら、〈花〉は〈現れること〉そのこととして、したがって本来的に見えないものとしてそこに現成する。
 世阿弥が「万に珍しき理」と言うとき、この「珍しき」こそ〈花〉にほかならず、本来的に実体的自己同一化を逃れるもののことであり、しかしまたあらゆる立ち現れにおいて自らにおいて直接経験されるところのものでもある。〈花〉の美しさとは、不壊の美しさであり、それ自体は表象され得ないものであり、役者の所作が現実化する自己形成的な生きた形姿において舞台上に感じられるものである。しかもそれは役者と観客との〈間〉においてのことである。
 世阿弥の〈花〉は、隠されたものと顕わにされたものとの間の矛盾的自己同一とでも呼びたくなるようなものである。隠されたものは、現象界に見えるものとして顕にされないかぎりにおいて、本来的に「心から心へ」と伝わる。それは、したがって、表現へと強いられるものではありえず、儚きものでしかありえないあらゆる立ち現れの手前あるいは彼方に保たれなくてはならない。
 これが舞台の〈花〉である。その〈花〉とともに見えないものの場所がそこに開かれる。その場所こそ、まったき新鮮さとともに生きた形が創造される舞台である。そして、そこにおいて私たちは諸現象の外的現われの彼方へと導かれ、その諸現象の内的本質に触れる。その内的本質こそ〈生命〉にほかならない。

 今回の『風姿花伝』の〈花〉をめぐる考察はこれで締め括りとする。また何年かして再読する機会が与えられることを願っている。