内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

『風姿花伝』の〈花〉再考 ―自由と形式の関係を手掛かりとした一哲学的考察(二)

2014-02-12 01:39:00 | 哲学

 「年来稽古条々」十二三歳の項では、とりわけ愛らしい姿で、声も美しく、しかも芸が上手な児ならば、何をやらせてもよかろうと認めた上で、その年頃の芸について、次のように注意する。

さりながら、この花は真の花にはあらず。ただ時分の花なり。

 このあまりにも有名な一文は、能において〈花〉を知ることがこの上なく大切であり、そのための根本的な区別がどこにあるかを指し示している。この「真の花」と「時分の花」との区別への注意は、この箇所以降『風姿花伝』でたびたび繰り返される。二十四五歳の項では、才能ある若き役者が名人相手に競っても勝る時があり、それで本人も自分は俊秀だと思い込みがちだが、これはかえすがえすも当人にとって害をなすものであると注意した上で、

これも真の花にはあらず。年の盛りと、見る人の一旦の心の珍らしき花なり。

と断ずる。同じ年齢の項の終わりの方には、

されば、時分の花を真の花と知る心が、真実の花になほ遠ざかる心なり。

にもかかわらず、人々は、この一時的な花を本物と混同し、それがすぐに消えてしまう花だということも知らずにいる。「初心」というのは、この時期のことなのだ。つまり、役者として独り立ちできる年齢になり、若さと才能ゆえに観客を魅了することができるまさにその時期が「初心」であり、そのときに「時分の花」と「真の花」とを区別できるかどうかにその後の役者としての生命がかかっているということである。
 では、この「真の花」あるいは「真実の花」は、誰もがめざすべき普遍的な理想型を指すのであろうか。そうではないことは、直後の一節を読むとわかる。

わが位のほどをよくよく心得ぬれば、それほどの花は一期失せず。位より上手と思へば、もとありつる位の花も失するなり。

 自分の芸位の程度を正確にわきまえているのならば、その程度の花は一生なくなるものではない。自分のほんとうの芸位よりもえらいように誤認していると、もとから有った花までも消えてしまうのである。つまり、能における「真の花」は、何かイデアのようなそれ自体で存在するような不変かつ普遍である実体ではないのだ。他方、「時分の花」も、そのようなイデア的なものに対して単に付随的で儚い一時的な現象に過ぎないのではない。その「時分の花」が咲くまさにその場所においてこそ、それと「真の花」とが区別されなくてはならないのである。
 「時分の花」を現象、「真の花」を本質と言い換えることができるのならば、世阿弥の能芸論においては、現象において本質を直観することが根本問題なのだと言うことができるだろう。ここでいう本質とは、現象に先立ってそれ自体で存在するのでもなく、諸現象から帰納的に規定される本性でもなく、その都度の現象においてそれをそのように現われさせているところのものであり、その現象においてこそ把握されるべきもののことである。その本質把握の方法の探究こそ能の稽古であり、その舞台における実現こそが能の究極の目的であるとすれば、能とは、まさに一つの現象学的実践であると言うことができるだろう。