内的自己対話-川の畔のささめごと

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揺曳する哲学的精神の記録 ― メーヌ・ド・ビランの日記を読む(六)

2014-02-24 00:55:00 | 哲学

 ビランは、哲学者としてよりもむしろ政治家として同時代人たちには知られていた。穏健な共和派と頑固一徹な王党派との中間の政治的立場に立つ中道右派を代表する政治家の一人であり、「中道右派こそフランスの真の世論を表している」という確信には生涯揺るぎがなかった。政治家としてのビランは、旧体制の盲目と革命の過ちとを同時に避けようと政治的努力を重ね、王政復古こそが国家統一の唯一の保障であると考えていた。
 このような政治的立場とビランの哲学とはどのような関係にあるのだろうか。これはビラン研究にとっての大きなテーマの一つであり、簡単に結論を出すことはできないばかりでなく、ビラン研究における一問題という枠を超えて、「政治と哲学」「政治と個人」「政治的主体と思考の主体の二重性」「社会の統治と自己の統治」「公共的生と個人の自由」などのより大きな問題領域へと繋がっていく。
 ビランは、自分の政治権力理論を、自ら固有の哲学的テーゼ、つまり内的人間存在の哲学のテーゼと照応するように構築しようとしたのだという仮説をアンリ・グイエは立てている。確かに、政治において至高の権威を求めることと個人の精神的生において自己の外にその支えを索めることとの間には相似性を見て取ることができる。しかし、至高の外部から来る媒介者の力の必要性を訴える政治理論と真理の基準として自己の経験しか認めないという哲学的テーゼとの間には、容易には解消できない理論的対立があることも認めないわけにはいかない。
 内面世界ではその唯一無二の支配者として判断し決断するこの〈私〉が公的領域において同じような権威性を自らの権利として請求することは、ビランにとって耐え難く許しがたいことであった。内的人間は意志と権能そのものであるのに対して、外的人間は権威への従属と他者への敬意をその基本的徳目とする。このような内的人間と外的人間との亀裂さらには分裂にこそ、ビラン哲学の深刻な問題の一つがあると言えるだろう。
 一八一二年以降、ビランはまさにこの問題ゆえに精神的危機を迎える。一八一四年から死の年の一八二四年までの最後の十年間継続的に書かれた「日記」はこの問題との悪戦苦闘の記録としても読むことができる。その中でビランが探し求めていたのは、グイエの仮説が示す方向とはむしろ逆、つまり内的人間の哲学をいかに公的権力理論の上に基礎づけ直すかという問いへの答えであったと私は考える。この「日記」が書かれはじめて間もない一八一四年四月三〇日の日付を持つ記事の中にビランはこう記している。

哲学者たちは人間全体を個体性に還元してしまった。革命家たちとて同様で、彼らは個人の諸々の必要とそれに関連する私的権利のことしか考えなかった。彼らは皆「公的権利」の真の源泉と、従属と服従なしには存続し得ない社会の現実の必要とを見損なったのだ。フランス革命後の時代、真の国家がもはや存在しないのはまさにそれゆえなのだ。

 ビランの政治思想の限界を指摘することは難しいことではないかもしれない。しかし、安易な非難を控えつつ、ビランの苦悩の跡を日記の中に辿りながら、その問題とするところを理解しようと努め、そこから私たち自身の問題として個人と社会の関係を根本的に考え直していくことこそ、私たちに与えられた課題だと私は考える。
 最後に、予告として一言加えておくと(つまり自分に次の課題として課すために今から言っておくと)、この問題をさらに広く深く考えていく上で私がビランの次に取り上げるつもりでいるのは、ビランの次世代つまりフランス革命後に生まれた世代に属するフランスの歴史思想家であり政治家であり、一八三〇年代のアメリカ社会の鋭い観察とそれに基づいた深い洞察から民主主義の根本問題を鮮やかに剔抉したアレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)である。