内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

世阿弥『風姿花伝』の〈花〉再考 ― 自由と形式の関係を手掛かりに

2014-02-09 03:50:00 | 哲学

 昨年の8月25日の記事「自由と形式 ― 独仏間の文化的差異について ―」の中で、ドイツにおける教育が「自由から形式へ」という方向性で特徴づけられるとすれば、フランスにおける教育は「形式から自由へ」という方向性で特徴づけられ、ドイツ文化とフランス文化とがヨーロッパ文化において相補的な役割を果たしているという、ハイツ・ヴィスマンの説を紹介した。
 その翌日の記事「世阿弥の〈花〉の現象学的分析」では、この自由と形式という対概念が日本文化においてはどのような関係にあるかを見るための一例として、世阿弥の『風姿花伝』における〈花〉の概念に注目してあるシンポジウムで発表したことを話題にした。その記事の末尾に、『風姿花伝』における「花」と『花鏡』における「離見の見」とについての考察に、両テキストをじっくりと読み込んだ上で、いつかまた立ち戻りたいと書いた。それ以来そのような時間を得られないままでいる。
 どこかで自分からきっかけを作らなくてはいつまでたっても立ち戻れないことはわかっているので、今週の水曜日の学部一年生の「日本文明」の講義で、一時間だけだが、『風姿花伝』の〈花〉について話した。シンポジウムのときの発表原稿は学生たちには難しすぎる内容だったので、その一部を簡略化して、この日本文化史の中で最も美しい芸術理論の一つである『風姿花伝』の根本概念である〈花〉について、原典からの引用とフランス語訳とをパワーポイントで見せ、その中の鍵になる言葉を中心に説明していった。学生たちは予想よりはよく聴いてくれた。特に女子学生たちは『風姿花伝』の文章が与える花のイメージの美しさに関心を示していた。他方、完全に白けきっていた男子学生たちがいたことも正直に言っておく。
 この講義の準備のために『風姿花伝』と仏語の発表原稿を読みなおしたことで、この機会に『風姿花伝』における〈花〉について再考し、自分の考えをまとめておこうという気持ちが生まれてきた。それを逃すまいと、明日以降、このテーマについて何回かにわたって記事にしていく。