『風姿花伝』における〈花〉とは何かという問題については、あるいは世阿弥の能楽論全般における〈花〉の位置づけと意味の推移については、すでに数えきれないほどの研究があり、もう論じ尽くされているとも言えるだろう。言うまでもないことだが、素人の私に学術研究として新説を打ち出そうなどという野心があるはずもなく、斬新な解釈で人を驚かそうという魂胆があるわけでももちろんない。では、なぜこのテーマを取り上げるのか。それはただ、世阿弥の芸術論をこよなく愛するひとりの素人として、曲がりなりにも自分自身でテキストと向き合い、そこから読み取ったことを記録に残しておきたいからにすぎない。
それにしても、どのような視角からテキストに入っていこうとするのか一応決めておかないと、一つの読み筋を浮かび上がらせることさえできずに、世阿弥の幽遠な言葉の森の中で道を見失ってしまいかねないだろう。そこで、いささか無粋なやり方であることを承知のうえで、今日の記事のタイトルにもあるように、自由と形式の関係という問題の枠組みを立て、その枠組みの中で『風姿花伝』の〈花〉へと通じる途を探してみようというわけである。言い換えれば、自由と形式の関係という問題について、『風姿花伝』における〈花〉をめぐる論述からどんな思想が読み取れるか試してみようという、一つの読解の試みということである。
その最初の手掛かりは、第一篇「年来稽古条々」の冒頭の七歳の項の中にすぐに見つかる。
この頃の能の稽古、かならずその者自然とし出すことに得たる風体あるべし。舞・働きの間、音曲もしくは怒れることなどにてもあれ、ふとし出ださん懸りを、うち任せて心のままにさせすべし。さのみに、よき・あしきとは教ふべからず。
能の稽古を始めたばかりの子供には、自由にさせるのがよく、善し悪しを論って形式を無理に押し付けようとしてはいけないというわけである。しかし、だからといって、何でも好きにさせていいわけではない。
ただ、音曲・働き・舞などならではせさすべからず。さのみの物まねは、たとひすべくとも教ふまじきなり。
やはり一定の制限があり、たとえその子供に能力があったとしても教えてはいけないことがある。学ぶにも順序があり、子供において生れる自然の発露を尊重しつつ、その心身を一定の方向に導こうとしていることがわかる。こうして始まった能の稽古の内容が年齢の進むにしたがって変わってゆくのも、その変化にともなって注意すべき点が変わってゆくのも至極当然なことであろう。
しかし、「年来稽古条々」全体を自由と形式の関係という視角から見るかぎり、そこには次のような一定の思想を読み取ることができるように思われる。自由あるいは自発性はそれ自体で独立の価値をなすというよりも、それが活かされるような適切な形式を得てはじめて生きた価値たりうる。と同時に、形式もまたそれ自体で生きた価値ではありえず、時と場所に応じた自由な創意・工夫があってはじめて生きた姿形として舞台上に実現されうる。このような考えは、第五篇に相当する「奥義」には、次のように表現されている。
ことさらこの芸、その風を継ぐと云へども、自力より出づる振舞あれば、語にも及びがたし。
「この能という芸は、先人のやりかたを継承してゆくものではあるが、自分の工夫から生まれ出るわざもあるので、言語では説き切れるものではない」(小西甚一訳)。つまり、先人たちによって確立された形式を継承することが能の基本ではあるが、その形式の継承の過程には個人の自発的な創意・工夫が様々な仕方で入り込んで来るものであり、そこにはとても言葉で説明できないような微妙な関係性があるということである。この伝統的形式の踏襲・継承と各個人の自由な創意・工夫との時に応じて無限に多様でありうる関係性が「心より心に伝ふる花」なのだと言うことができるだろう。