昨日の記事の終わりに引用した『風姿花伝』「花伝第七別紙口伝」の一節をもう一度引く。
しかれば、芸能の位上がれば、過ぎし風体をし捨てし捨て忘るること、ひたすら花の種を失ふなるべし。その時々にありし花のままにて、種なければ、手折れる枝の花のごとし。種あれば、年々時々の頃になどか逢はざらん。ただ、かへすがへす初心を忘るべからず。されば、常の批判にも、若き為手をば、「早く上がりたる」「劫入りたる」など褒め、年寄りたるをば、「若やぎたる」など批判するなり。これ、珍しき理ならずや。その上に、年々去来の品々を一身当芸に持ちたらんは、いかほどの花ぞや。
同箇所の小西甚一博士の現代語訳も併せて引いておく。
だから、芸の位が上るにつれて、これまでやってきた芸態を忘れてゆくのは、まったく「花の種」を失うことだといってよい。その時期だけの花を咲かせるにすぎず、花の種を失うわけだから、まるで折り取った花の枝と同様である。種さえあれば、毎年その頃には、かならず花が咲く。どこまでも初心を忘れてはならない。それで、いつもよく聞く批評にも、若い役者をほめるのに「早く芸が大人になった」「老練な芸だ」とか言い、老年の演者をほめては「若わかしい芸だ」など言うのである。これは「目新しさ」というものが花となるゆえでなくて何であろう。十体をいろいろ工夫しかえれば、百種にもなるであろう。その上に、年齢的な芸風の変化まですっかり身につけていたならば、どんなにおびただしい種類の花となることであろうか。
その時々に咲く花がそのように咲いたという単なる事実と、そのような多様でありかつ儚い花をそれとして演じ分けられる芸位に達するということとはまったく別の事柄なのである。ある役者が様々に異なった芸態を同時に身につけているということは、同時に異なった花を咲かせることができるということではなく、初心の頃から様々な芸態において自らを表現しつづけてきた何かがその役者において生きつづけているということだろう。世阿弥が「花とて、別にはなきものなり」と言うとき、絶えず変化生成のうちにあるものが問題なのでもなく、「理想的な花」と現象界においてある時ある所に事実咲いた花のうちの一つとの間に見出されうるとされるような何らかの類似が問題なのでもなく、自然の内的本質の、その都度儚くはあるが真正な顕現、より具体的にはその都度の舞台上での真正な現成のことにほかならない。